朝3時ごろから忙しい作業が始まると子供がいつ起きて学校へ行ったかなんてわからない農家。坂道や狭い農道を伝ってて自転車で行くのも大変。勉強はさっぱりわっからない。ま、いいか。納屋で遊んでたり仲間で集って林の中でベーゴマでやってたり。「山学校」を探して連れ。大体校長室でお説教され、親にも叱られて出てくるようになる。農村の中学生の進学率50パーセントのころだ。
登校拒否症はアメリカでできた言葉、すでに少しずつ出てきていた。でも「症」という言葉は病的だと登校拒否と呼ばれるようになる。
それが親の会から「家の子は拒否しているわけじゃありません。行きたいけれどいけないのです。」という声が出てきて今は不登校と呼ばれるようになる。
理由は千差万別で一口では言えない。
私が最初にかかわったKはしっかりしたリーダー。ただ遠足の日におなかの調子が悪く駅のトイレから出てこられなかった。先生は彼女なら大丈夫と思い母親に電話して駅まで迎えに来てと伝え置いて行った。学校が二つの駅の真ん中お母さんの思い込みで違う駅に行き結果として子供を1時間以上も駅でポツンと待たせることになった。
次の日から学校に行こうとするとおなかが痛くなる状態が続く。病院に行くが身体的には問題なし。精神科で無理やりお母さんと引き離して検査しようとしたら柱にかじりついて泣いた。それ以来登校せず。銀行員のお父さんの転勤で宇都宮に。二日ほど通学したが疲れたといって休む。担任の教師が迎えに行った。会いたくないといのを部屋から引っ張り出して連れ出そうとする。小学6年はそれ以来欠席。
中学で私の担任となる。7日間きて休みそれ以来来ない。家庭訪問では会えた。質問があるラジオ講座でわからなかった部分の英語わかりますか。何とか対応できた。
頻繁な家庭訪問とか電話は苦痛だという。2週間に一度の訪問を約束し、わからないことは専門の先生に伺ってくるからちゃんと用意しておいてというとうれしそうな顔。それを2年の1学期まで続けた。
夏休み訪問した時一緒に自転車で総合公園の方に二人でサイクリング。運動苦手同志のバドミントン。夏休みの宿題わからないところあるから先生のうちにAさんといっていいですか。バスで来る。
算数の宿題を何とかクリアしたころ雷雨。母親が車で迎えに来る。
「ああ、明日から学校か~。」勉強得意じゃないAが嘆く。「ほんとだねえ大変。」私も答える。Kは何も言わない。でも翌日彼女はAに連れられて自分の席に座っていた。すぐに始まる運動会練習。三日で疲れた。もうダメかな。でも1日休んで出てくる。なんとそれから2年終わるまでは休みなし。
(この項続く。)
気分を変えて。「赤毛のアン」の舞台から。
グリーン・ゲイブルス
アンの部屋にはマシューが内緒で布を買いリンド夫人い縫ってもらったマリラに言わせると「無駄に袖の膨らんだドレスがかけてある。
調理にも使われるストーブ。もちろん再現されたものだけど。
駅はだいぶ近代的になっていた。
赤土、緑の畑、光る水の青。パッチワークの島と言われる。




