今日が最後のオープンキャンパスの大学へどうしても行きたい。夕べ手に入れた市販のキットで調べました。無事マイナス。熱なし、食欲あり。仕方がない、いかせました。

 

 ここから先は読んでくださらなくてもいいようなものです。

 今日は夕べ眠れぬまま考えた事書きます。

 生まれた瞬間から、笑った何か言った、何でもないことさえ子供は喜びを与えてくれるのに、自分自身では悲しいとか寂しいとかいうことばかり覚えているものなのでしょうか。

 200日目ごろ実父がなくなったことはさすがに何も知らりません。ただ家を継ぐべき伯父に10年近くも子供ができなかったことで、私は祖母のもとに残され、未だ若い母は再婚する方がいいと実家にもどったと聞きます。

 私にとって「おかあちゃま」はお土産をもって訪ねてくる人。それなのに一度だけ、母の白い足袋のつま先が草履に滑り込む瞬間、無性に悲しくなって泣いたのは3歳くらいの時だったか。そのあとの記憶はありません。 

          

 4歳の冬、開戦の日、高い縁側の沓脱石から飛び降りて宮城をむいて戦勝を祈って柏手を打たされたこと。ただ、さむかった。

              

 5歳の夏、まだ戦いは本土にまで及ばず、軽井沢に部屋を借りて祖母と滞在しました。隣のドイツ人の女の子とテラスでヨーグルトにお砂糖をかけてご馳走になりました。急に浅間山から灰が降ってきて真っ白なヨーグルトに黒いしみができたこと。妙に悲しく覚えています。こんな小さなことなのに。

        

 伯父にしばらくして子供ができることがわかり、私の存在は中途半端になりました。そんな時継父が私を引き取ることをもうしでてくれました。母がひどい流産で子供が望めない可能性ができたと聞いたのは大人になってから。6歳くらいか、祖母は私を母の家にのこしてかえりました。何時ものように祖母の家に帰れないことを知った私は一晩泣きました。そしてあきらめました。

 ただ継父は私を一人娘としてとてもかわいがってくれました。彼の最後をみとったのは旅先の母ではなく私でした。

 

 本土が敵機に襲われるようになり学校へ行くようになってからは様々な記憶が錯綜してくるのですが。

 

 幼い日の記憶はなぜかみな物悲しいものばかりです。