私の二十歳、父が倒産した。しばらくは前の会社の社宅にそのままいさせてくれたが大学1年の秋に追い出されアパートに移り住んだ。その頃父は大分に隠れ不在地主でほとんど没収された残りのわずかばかりの財産を処分するためと借金取りから身を隠すためにいわゆる蒸発状態を装っていたらしい。

 私は受験料入学金などを実父の兄であり六歳までそだてられた祖母のいる家の伯父に借りて大学に入った。母は自分の持っている着物を売ったりしたが働きに行くことは三日でやめた「私にはできない。」お嬢様育ちに母が出した結論であった。謡曲のお友達のお宅で内職の皮手袋縫いをして母が得てくるお金は銭湯代くらいにはなった。私は家庭教師を2件、中学受験生の女の子を教えていた。そして土日は学徒援護会に通いなんでも片っ端からアルバイト。電話局の掃除、衣料品のお店の大売り出し(万引きに気づいて報奨金をもらった)、選挙の鶯嬢、製本会社、3,4年からはもっとまとまったいい仕事に就けたがその時はそんなわけのわからない仕事だった。その合間に学校祭にも参加した。なんかやけっぱちながらそれでも母と私が食べていけたのだから大したものだ。その貧しい時代が妙に懐かしい。

     

 そんな二十歳の成人式。晴れ着を着る習慣はまだない。1958年1月15日。東京は雪が積もっていた。母の古いコートを着て放出物資で買った赤いウールのスカートとピンクのセーター着て長靴はいて中野の公会堂へ行った。志賀直哉原作の「正義派」とい映画を見た。そして成人手帳をもらった。

           

     

 娘の頃、栃木県は母校で成人式をすることを推奨していた、彼女の前の年は大雪の降った次の日、校庭に雪が積もっていた。私は担任だった卒業生の年だったので参列した。体育館は寒かった。娘の年は朝から雪が降っていた。昼頃にはやんでつもりはしなかったけれど、朝出かけるときは大変。ついでにお隣の男の子ものせて夫が連れて行った。

          

 親ばかだけれど振り袖姿をみるのはうれしかった。孫にも着せたかったがあいにく男二人じゃしょうがない。娘は茶道を習っていたし、そのあと数年は結婚式もあったし卒業記念パーティーと七回は着たと思うので箪笥の肥やしにならっずにすんでよかった。

 

 十八歳となると来年の1月は成人式、まだ高校生なんだけどスーツ着るのかなあ。まさか七五三みたいな羽織袴で行くなんて言わないと思うけれど。

 その頃正義派にも出ている佐田啓二主演の映画の主題歌、この歌が流行っていた気がする。

  

 

   

 

 さて明日から入院です。スマホで投稿したことがないのでコメント入れたり、コメレスしたりはできるかもしれませんがしばらく休業いたします。