今日もいいお天気だった。雲一つない快晴。マッサージに行ってすっきりして気持ちよくお昼寝。

 

 さて続きのお話をしよう。

 

 話しはさかのぼるが中学3年の頃継父の故郷の引揚者で優秀な学生が東京の大学にった。父親は中国で亡くなり兄は警察官に採用されていて、妹が一人母親と九州にいる、学費がないので家庭教師をしたいといわれ、継父が連れてきた人がいた。でも私自分で勉強する方が効率がいい。そこで叔母のところの従弟に送り込んでもらった。すると今度は実父の兄である後で学費を出してくれた伯父のところにできた小学生、これが頭はいいのだが話し相手ができない、来てくれないかという事でそこにもいくようになった。叔母の家にいたから週2回顔を合わせる。そして芦屋に移り住むと従弟たちを連れて甲子園を見に来る。なんとなく縁が切れなくなった。

 私はまあお兄ちゃんという感じ。その人が大学を終えて国家公務員に合格で大阪に赴任することになり私は東京の大学に合格した。彼は我が家へ養子になってもいいから私が大学を出たら結婚したいと両親い申し出たそうだ。「いい話だ」と両親は乗り気。なんだか釈然としないまま押し流され断れなくなっていた。あれは大阪へ旅立つ寸前だっただろうか。彼が廊下の暗闇で私をそっと抱きしめようとした。私思わず私は彼のほっぺたをひっぱたいてしまった。そのまま彼は大阪へ。周囲は私が結婚すると思っている。何度か東京へ来るたび訪ねてきてなんとなくその辺を歩いて話したりはしていたが、なけなしのバイトでためたお金で大阪まで一人で断りに行ったのが大学2年の夏だった。かえってきて両親に伝えた。呆れたのか何も言われずそのままになった。彼には本当に申し訳ないことをしたと思うが私は彼を男性として見ていなかったのだと思う。

 

さて1954年に戻ろう。

 継父は実家のあった九州へ姿を隠していたが、不在地主で田畑はほとんど取り上げられていたしわずかに残る持ち家などを処分していくばくかのお金を借金の返済に充てたりしたらしい。そのいきさつは私は詳細を知らないが、その段階で営業の手腕を見込まれて別の会社で迎えてくださることになりアパートに戻るまでは1年以上あったと思う。私は父の税金の関係で2年からは奨学金がとれたしアルバイトは家庭教師のほかも土日には学徒援護会へ通いありとあらゆる仕事をした。

 一間のアパートはトイレは共用ではあったが水洗で所帯数だけ並んでいた。銭湯に行かなければならなかったが、大家さんの田舎に預けていた末の娘さんが秋田から親元に来て東京の勉強が追いつかず家庭教師を頼んできて、私だけはそちらのお風呂に入れていただくことができ、高校になんとか潜り込ませることができた。

 大学に便利なところなので友達はよく顔を出した、私もこだわらずにそこでノートを写させてあげたりしていたので、私のいないときに、キャベツのバター炒めとねぎと油揚げのお味噌汁だけの貧しい夕食を母に供されて帰るつわものもいたし、遠方の女友達は終電に間に合わないからと泊りさえした。

 大学では仲の良いグループができてお昼抜きの貧しさでも最高に楽しかった。

        

 さすがに父がいるようになってからは来なくなったがすぐ会社で埼玉にできた大きな団地を確保してくださった。

 

 1957年夏休み埼玉の上福岡に移った。

 階下6畳一間と台所風呂トイレ。2階は6畳と4畳半の連舗住宅、極楽だった。大学の友達男性3人が引越しを手伝ってトラックに乗り込んで采配をとってくれた、

 

  

   

 

    

 朝どこからかラジオでこの歌が聞こえてきたら一日中「だから言ったじゃないの」のリフレインが頭をよぎって往生したのはこの頃だと思う。

 

今日のお弁当。