夫の立場が忙しくなり、夏休み中の教職員対象の研修などの引っ張り出され家を空けることも多くなった。11年間も病気療養だからと私のところで過ごした叔母も、親戚たちからそろそろ従兄が引き取って行き先を決めるように言われたし、私も教頭試験を受けて管理職に就くことを勧められていた。
娘は母より叔母の方が好きなくらいだった。一緒にハワイ旅行も連れて行ったし、叔母も私の家にいる時が一番幸せだっていってくれたのだが肝心の母が戻るべきだというし。
私は直接生徒と接する機会の多い担任ある立場が好きで管理職はタイプじゃない。あれこれ悩んで結局退職した。53歳31年働いた。
生徒と過ごしていた忙しい日々には書いていた詩作もなんだか中途半端になり、指導してくださった方がなくなったのを機会にほとんど書かなくなった。
それでもしばらくは新聞社から頼まれ模擬テストの出題を担当したり、中学の授業とかかわっていたが、それは栃木県では偏差値教育中止の理想論のため中止になりお役御免。
そのうち叔母が家を離れると横田の基地の宝石店で勤め、会話の堪能な叔母がいなくなり、今まで母が国際交流でよんできたたくさんのホームステイの人たちの対応に困る。
それで英会話を習いに行くことになった。同時にボランティアガイドのグループに入りそこでも勉強会に参加。何とか日光の案内ができるようになった。
同時に国語が専門で英語が何とか行けるので英語学校の方で外国から転勤してきた方たちの日本語を教える仕事も頼まれることになった。
子供の頃ちょっと習った好きな油絵を習いたくて英語のほかに週1回くらいは絵画教室にも通ったが、3年目ひどい五十肩で道具が持てなくなり治ったら行くつもりが反対側も五十肩。都合3年くらいかかってついにあきらめた。
作品はほとんど手元を離れ、これ1一枚が残っている。
外に出る仕事をやめたらストーカーのPTSDで家で英会話を教えていた娘が結婚、すぐ子供ができたので塾に残りたい生徒だけ「おばあちゃん先生がいい」っていわれてしばらく英語を教える羽目に。
結局フルタイムじゃないけれど、ずっと働いていてそう自由な時間があったわけじゃない。
何もなくなったのはここへきてからの14年だけ。70歳まで働いていた。
以後いまだに続けているのが英会話。ガイドしていた時に比べると語彙も減り滑らかに話せなくなったが、今はひたすらぼけ防止でこれだけは続けている。
ダークダックス、アンコール!
埴生の宿も我が宿
玉の装いうらやまじ
のどかなりや春の空
花は主鳥は友
おお我が宿よ
たのしともたのもしや
書読む窓も我が窓
瑠璃の床もうらやまじ
清らなりや秋の夜半
月は主虫は友
おお我が窓よ
たのしともたのもしや


