もうあれだけの戦争を体験してきたんだから、ずっと平和でいられるって思っていた。

 2001年9月11日。

            

 1984年12月から85年1月にかけて2週間ほど私たちはニューヨーク郊外の知人の家に泊まった。

          

 ツインビルの接続部分でものすごいビル風を楽しんでいる。70近い母までそして展望台までのぼった。

 その7年後娘は交換留学でニュージャージにいて丘の上のミッションスクールの寮の窓から対岸のマンハッタンの明かりを楽しんでいた。そのなつかしいツインビルが崩れて行くのを娘は涙をポロポロこぼしながら見ていた。死者約3000人、負傷者25,000人以上といわれる。これは紛れもなく人の起こした災害である。

 

 戦後の日本でテロという言葉を何度もきく羽目になったのは1995年1月の阪神淡路大震災の年だった。

 死者6000人、負傷者4000人余りの多くは圧死というところが都会の惨事の特色だったようだ。

       

 

 そ記憶も消えぬ3月のオーム地下鉄サリン事件ここでテロという言葉に直面した。まったく規模は違うが憎しみからは何も生まれないことがなぜわからないのだろうと腹がたったり、それ以上に悲しかった。

       

 娘は前日泊めてもらった友達と宇都宮の家に帰ろうと地下鉄の新宿駅で足止め。JRに方向転換して帰ってきて、初めてサリンがまかれたと知り、頭痛がしてきたと騒いでいた。こんなことが起きるとは思ってもみなかった。

 

 災害列島日本、この阪神淡路大震災は関東大地震を忘れたころに襲った大災害であったけれど2011年の東日本大震災はまだ阪神淡路の傷跡も癒えないときだっただけにショックだった。大津波による最大の惨事はテレビを通じて刻々と伝えられて見ることもつらかった。死者行方不明者10万5000人にも及ぶ犠牲者の多くは溺死だったといわれる。

        

 その上いまだに原発のメルトダウンの後始末は解決できない問題を抱えたままだ。

 

  生きていれば様々なことが起こる。でもさらにコロナが追い打ちをかけるとは思ってもいなかった。累計死者17000人に及ぼうとしている。これは日本だけ。世界ではどれだけの人がなくなっただろう。

       

 

 

 私のブロ友さんにはその災害を実体験された方もいる。どんなにお辛かっただろうと胸が痛む。

 

 防災記念の日、そして9・11、ことあるごとに思い返しながらも自然災害は最小限になるよう準備し、無益なテロや戦争は人知で乗り越えたいと思う。それにしてもアフガンの問題はいったいいつになれば出口が見えるのだろうか。

 

 ちょっと暗い話題でごめんなさい。後で楽しい話題見つけますね。