1955年高校2年の最後、神戸の高校から元のミッションスクールに戻ることができた。継父が所長をしていた大阪支所の部下が大量に会社のお金を横領していたのに気づかなかった責任を取って半年後に退職することになったからである。

 継父は営業マンとしては優秀であったが経理に無頓着過ぎる欠点があった。半年後というのは父の営業先とのコンタクトなどで残ることを必要とし、一応決着をつけて退職、つてがあって建材販売の会社を興した。またすぐ今度は紹介された経理担当者に持ち逃げされた。残ったのは借財のみ。わずかな母名義の預金で高校卒業までは何とかしのげたが大学受験はあきらめなければならない状態、担任のシスターは「もったいないわねえ。就職ならいくらでもとっていただけると思うけれど、何とか大学への道を探せないかしら?」と心配してくださった。

 実父の母親である祖母に相談すると伯父に話してくれ、快く受験料を出してくれ、さらに受かったら1年分の必要なお金は貸してくれるという約束までしてくれた。(後にためたお金で返しに行くと、お祝いにあげるつもりだったが甘えてしまうと思ってそういったんだからいいよって渡してくれた。うれしかった。)

 大学受験の間際になって継父は不在地主でもうあまり残っていない田舎の土地の処分などのためと母を借金取りから守るためもあって姿を消した。

 それが1956年である。母と私は社宅を出て一間のアパートに移った。

 まず伯父に紹介された中学受験のお嬢さんの家庭教師が私の最初の仕事であった。

 それで評判がよくもう一人男の子を頼まれどちらも裕福なお宅であったため待遇は抜群、いい収入となった。さらに土日は学徒援護会でアルバイトを捜し様々なことをやった。選挙の鶯嬢、バーゲンセールの臨時店員、電話局の清掃と設計図の線引き、怪しげな雑誌に怪しげな栞を挟む仕事etc.なんでもやった。

 奨学金は前年の所得が多かったためまだ取れない。稼ぐしかない。2年からは受けられた。

 私のわずかな稼ぎで母と二人の食費もほとんど賄った。母はそれでも謡曲のお友達の家で皮手袋を縫いに集まる方たちとおしゃべり楽しみながらの内職をしてくれ、銭湯代になったっけ。

 池袋に、西武、東武、三越とデパートができ、戦後の復興は進んでいた。

 けれど東京多摩の砂川町で起こった米軍飛行場拡張の反対運動は安保闘争へとつながっていき、学生運動も盛んになった。

      

 デモに参加する人たちの情熱をまぶしく眺める私はノンポリ・ノンセクト。それしか立場の置きようもなかった。

         

 巷には太陽族と呼ばれる人たちがあふれていたが、石原慎太郎の「太陽の季節」に登場するような金持ちのボンボンのことで、今の若者よりはずっと地味だった気もするが湘南の海岸で群れる彼らとも無縁だった。

 

           あの日わたしは 

 

     無機質な化粧板のテーブルに

     失った恋に泣く友

     漂ってくるカレーの匂いに

     かみあわない切なさ

 

     階上から聞こえる

     麻雀杯かきまわす音

     拾いだす言葉どれもむなしく

     ガラガラとまじりあう

 

     安食堂の苦いだけの珈琲さえ

     私の財布には重たいのに

     遊びのような恋の終わりに何を言えばいいの

 

     学生の町の夕暮れ

     失う恋もないわたし

     茫然とデモの旗過ぎるのを見ていた

 

                     若き日の私のソネットから

           

        

 わずかの稼ぎでも、往復大島航路の船中泊の学部の旅行に参加し、学校祭の演劇に頼まれて出演し、いわば意地になって青春の仲間入りした。

 

 その頃あちこちの店先でながれていた歌で覚えているのはこのふたつ。

 

    

 私の幸はどこにあるのかわからなかったけれど。

 そしてもう一つ。これはもう半分やけっぱちの私にぴったり。

 

    

 日本語ではペギー・葉山が歌っていた。

 

 一番苦しかったのに妙に懐かしい年が1956年。