五年ほど日本舞踊を習っていた。初めバレー教室へ連れていかれたが、嫌で嫌で仕方がなかった。従妹が母に「いやだって言ってる」と伝えてくれ、今度は日本舞踊に連れていかれた。不思議にこれは楽しかった。関西に転勤になり流儀は違うが近くに出稽古の先生が来ているので行ってみた。これがまた相性が良かったのか一年もやれば名取にというところまでいき「八百屋お七」の人形ぶりを習い始めたころ、東京に帰ることになり、さらに前の会社の責任を取って別の会社を興した継父が倒産した。日本舞踊どころではない。高校は出られるとしても進学をどうするかだ。日本舞踊はすっぱりあきらめた。
だから結婚するときも和服は浴衣さえ置いてきた。
ところがお正月に学校に集まるという風習があった栃木県で、今なら女性蔑視とも思えるが校長がその時和服で来てほしいと女先生にに注文を付けた。あいにく一番若い体育の先生、和服なんて持ってない。二人は妊娠中で締め付けたくない。ここに写っていない間もなく定年という先生と私たち二人素直に着て行くことにした。母に告げると嬉々として私の着物を何枚も運んできた。
ついでに初もうでに行った日光まで着物でいく羽目に。
さらに三年担任は袴で出てほしい!仕方がないサージの袴あつらえた。当時は紋付でなく小紋に袴が流行だった様で華やかな着物という事で小紋を着たがこれは写真に残っていない。
お母さん方が制服のように黒の絵羽織を着るようになったときは3年担任は一つ紋の紋付だった。ここまでは母が用意してちょっとした発表会などで着たもので間に合った。
甥の結婚式のために留め袖を新しくした。
これは娘の時にも必要だったので、まあ仕方がない。
夫が表彰され時訪問着をまさか十代の物では間に合わせられず、母の見立てで高い辻が花を買わされ帯は留めそでの時のでまに合わせた。
これはお義姉さんが日本でやる結婚式にドイツ人の婿殿の希望はできれば着物でって言われ一歳と二歳の子供連れて行く娘が勘弁してよ~と私が着物でお付き合い。これを最後に私と和服は縁が切れた。
さて腹膜透析の娘も着物は無理。如何する?
成人式、娘がカタログで選んいったものより気に入ってこれというのをそろえるとまったく予算オーバー。そんな時は母は張りきる。足りない分私が出すからいいもの買いなさい。鶴の一声である。





