長い文章は読むのが大変。ほとんど単語で綴る母の百年史。
裕福 銀行家、小樽に倉庫と牧場、優勝経験のある競走馬所有。
東京の麻布に木造3階建の家 各国の軍属や金持ちとパーティー。
麻布に茶・華道、謡曲・仕舞などの稽古に使う別宅。大磯に別荘。
7人の子供にはそれぞれ「ねえや」小学校に付き添い待合室で待つ。
これは皆叔母たちに聞いた話で、私はそんなリッチな恩恵に浴したことはない。社宅住まい。美人でもない!
日本的な美人で「○○家令嬢」雑誌に載った。
男一人、女六人の中で一番勉強は苦手、運動神経抜群、昭和初期のモダンガール。
両親が亡くなり、唯一の後継者の伯父が帝大を卒業間近に結核で早世。、財産を継ぐ者がいないという事で悪徳弁護士に全部取られる。
双子の片割れの妹も同じころ亡くなり双子の片割れは北海道の牧場のマネージャーの息子石油会社勤務と結婚。
実父。教育家の次男で父親の学校の教師。叔母に言わせるととてもやさしい人。
彼は私の誕生二百日ぐらいで、結核で死亡。病気が伝染するといけないからと病室に連れてくることを拒み、私は写真でしか見たことない。
お嬢様でまだ二十二歳,、寡婦として子供を育てて行くのは無理。私は祖母の手にゆだね、母は実家へ帰って祖父母が亡くなる前に無事再婚。
すぐ母の下の叔母 一番裕福な家に嫁いだ、地図を作る会社を経営していた大財閥の三男。戦後没落。バンドを組んで進駐軍のキャンプ巡り、従弟一人ができた後はなんとゲイ。こぎれいな男の人が家にとぐろを巻いていた。叔母は横田の米軍キャンプの中の宝石店に勤め従弟を大学までだした。この人も従弟のお嫁さんからいびり出されて私の家に十一年。
満鉄から戻った継父は軍需工場に職を得た。母が流産を繰り返して、どうしても子供が欲しかったところ伯父に14年目にして子供ができて私を引き取った。
何もしない奥様。工場慰問に来る映画俳優たちの接待が役割。家政婦さんが疎開寸前まで狭い社宅で私と床を並べ、疎開から帰るとまたすぐ我が家に来ていた。ご主人も息子さんも銀行員。夫亡きあとお嫁さんとうまくいかず、我が家の方が居心地よかったらしい。病院に入って間もなく死ぬまで我が家に。あとは継父の田舎から行儀見習いがくる。
継父が事業に失敗して身を隠しても三日働いたら「私には無理」とやめてしまう。伯父から借りたお金で大学に行きアルバイトに明け暮れる私が食べさせていた。
得意料理。シシャモを焼く。醤油の玉子焼き。キャベツと油揚げの味噌汁。おつきのねえやの得意料理だったらしい。食事はコックの仕事だから。
ただ一つすごいと思うのは疎開やその他でも身近においた着物など戦後食糧に替えたり、困ったときに質屋へ持っていったりをまったく恥ずかしいとも思わなかったところ。
継父の死後宇都宮へ。国際交流の会の花となる。客を招くと一緒に連れて行った娘が言うには「私はいいのよ、みなさんおはいりになって」といいながら有名人の傍で写真撮る。ついに物心ついた娘同行拒否。
わかっていて苦しい中から継父は遺族年金をしっかり残したがすべて旅行と着るものなどにつぎ込む。生活費という観念はなし。
だけど憎めない性格。ぼけたらかわいいおばあちゃんになった。うらやましい人生。
私が生徒に家を説明していたら「あ~はでな鬘かぶったおばあちゃんがいる家ね」といわれた。ギャフン。
これを女傑といわずしてなんという。。




