私の家ではお盆だとて精進料理とは無縁だが、8月15日終戦記念日によくすいとんを作る。
もちろん今のスイトンは鶏で出汁をとり様々な野菜を入れた結構豪華な一品だ。でもそれを食べながら戦争のはなしをする。
戦時中のすいとんはこの写真に似ている。
実際はこんなにたくさん身が入っていたわけではない。せいぜい5個くらい精製されていない色黒の小さな小麦粉塊がういているだけ。汁も薄い味噌汁か、醤油と塩を入れただけの物。たまに薄切りの大根とか大根の葉を炒めたものが入っていて、そういう時は御馳走だった。
金属はアルマイトと呼ばれる鍋だったかなあ。とにかく鉄ならフライパンまで供出といって集めて軍需工場に送られた。戦後はバケツですいとんを汁ごと配給されるのをとりに行ったこともある。
パン。敵の言語だからパンと呼んだかなあ?
小麦粉をといて重曹と塩をくわえてこんな箱に電気を入れて焼く。味は忘れたけど口に入ればなんでもよかった。軍需工場勤務の継父が軍のおこぼれに頂戴してきたバターを付けたことがあったが、こんなにおいしいものかと思ったことがある。
終戦後、トウモロコシの粉が配給になって これでパンを焼くと、口に入れた途端に粉に戻った。
馬の餌に使うというトウモロコシの粒もそのまま配給された。小麦粉をてんぷらの衣より硬くといて塩を入れトウモロコシの粒を入れてあげた。これは結構いけた。たまに少しばかり闇の玄米が手に入ると、そのままではうまく炊けないがあまりついてしまうともったいない。精米の方法はないから一升瓶に入れて棒で搗いた。
サツマイモは代用食の代表選手。ご飯に刻んでいれて量を増やしたり、ふかしたまま食べたり、乾燥芋にして齧ったり。
もっと白っぽくて水っぽかった。
ひどい時は主食に手に入った桃を2食。好きだけどおなかの足しにはならなかった。
闇市ではいろいろん物が手に入ったらしい。抜け目のない人はそれでもうけて成金になったそうだ。でも闇に手が出せない庶民や、出さないで頑張って栄養失調で死んだ人もたくさんいる。
私の小さな従妹は叔母のお乳が止まりミルクがめったに手に入らず、重湯などでしのいだが体が弱く、叔父が南方から復員する1週間前に亡くなった。手紙で話しか聞いていない娘に会うことを楽しみに帰ってきた叔父は小さな白木の位牌の前に1週間無言で座り続けたと聞く。
それでもマッカーサーの副官が母の知り合いだったおかげでレーションという配給の缶詰を届けてくれ、コンビーフやオイルサーディンとかこの世にこんなおいしいものがあるなんてと思ったものだ。
時にはレストランやお寿司屋まで連れて行ってくれて、あるところにはちゃんとあったんだって今にして思うけれど。
個人的嗜好にもよるだろうけれど小学校4,5年頃まではそんな時代だったせいか食べ物の好き嫌いが夫婦ともに全くない。ミッションスクールに編入したのは終戦後2年、4年生の時。お弁当にふかし芋持ってくる人もまだいた。
かわいそうだと夏休み九州の祖母の家で半月過ごした時おいしいかば焼きを食べさせてくれた。後で聞いたら蝮のかば焼きだった。びっくりしたけどやっぱりおいしいものは美味しかった!
裏がなしい懐かしさ、そんな気持ちにさせられる思い出だ。



