満鉄で働いていた継父は太平洋戦争が事実上不利になった頃(軍の発表は相変わらず勇ましいこと言っていたらしい)帰国し軍需工場に勤めた。

 その工場は神奈川県の綱島にあった。軍の無線機を作る会社だったようだ。母の再婚先である広い借家から今でいえば東横線でちょっとの距離ではあるけれど、戦局のことを考えて狭い綱島の社宅に移ったのは幼稚園もあと3か月ほどで終わるころだったろうか。

 すでに東南アジアの各所はアメリカ軍の勝利に終わり、日本軍は死の撤退を始めていたころだった。

 綱島はラジューム鉱泉が出て、醤油のような冷泉を沸かしたものが銭湯でさえ使われ、いくつかの温泉旅館があった。その一つを軍が接収し、母屋は大家族に、子供が1~2人の家はその離れを住まいとして風呂場は台所に改造されていた。

 1944年私が小学校に入った夏、沖縄は事実上アメリカ戦に大打撃を受けそこから飛び立つ米爆撃機は警戒警報が鳴りだすとすぐ空襲警報に切り替わるほど早く本土に到着した。。私たちは学校の裏の高台に掘られた暗い穴に突進し、飛行機が去った間隙を利用して家に帰った。でもまたサイレンが鳴る。芋の混ざったボロボロの握り飯が常に用意されていてそれをもって今度は町の防空壕に駆け足で走る、そんな毎日だった。

         

 これはそこではないがこんな感じの穴がいくつかあり中は結構広く両側にも曲がって続いていたような気がする。

 今その上には綱島公園があり住宅地が広がっているようだ。

 

            防空壕

   あなたは知らない。
   あなたが暮らす暖かな家の下のこの丘に
   防空壕という名の
   やさしい怪獣が眠っているのを。
   降り注ぐ火の粉からのがれて
   つかの間の安息を求めて集った人々を
   懐に抱えて、
   缶の中にともされた仄暗い明りの油煙にむせながら
   じっと耐えた。
   壕の入り口から、燃え盛る町を唇をかみしめて見守る
   悲しい瞳を隠すようにその背に枯れ草を載せて、
   静かに横たわっていた。
   今新たな内臓を詰め込まれて
   彼の背にはいくつもの平和な暮らしがある。
   でも、やさしい怪獣は、
   あの日々のつらさを忘れないでと
   夢の中でさえ願っていることを
   あなたは知らない。

 

 お兄ちゃんは朝から秋の大会応募のビデオ撮りで熊谷。お父さんが送っていき母親同士のおしゃべりをしに娘もついて行った。兄貴は一日忙しい、合間に文化祭でやる演劇の台本書くのだそうだ。ヤレヤレ!

 

 新しい暫定的の夏服のポロシャツ着てこれは涼しくていいと出かけて行った。

           

 床屋に行く暇がないのでこのありさま。

 

 雑草だらけの間からペチュニアが咲いている。

     

   今日も暑そう。