宇都宮にいたころYMCA主催でボランティア・ガイドのコンテストが何度かありました。外国の方もお招きして日本の文化についてお話をするもので、高校生だった娘はアメリカへ1年留学していたこともあり、大学も決まった時期でしたので「日本のお正月の迎え方」のお話をして優勝させていただきました。この時はお屠蘇やお節のお重を用意して審査員に食べていただいたりしました。私も「那須与一」もお話しをして別の回ですが準優勝させていただきました。
そして間の休憩の時にエキジビションとして私たちのグループで英語で狂言をしたり昔話の紙芝居をお見せしたりしました。
これはその中で宇都宮の空襲についてお話した時の資料です。
昭和20年7月半ば宇都宮には陸軍第十四師団が置かれていたこともあって何度か大きな空襲がありったそうです、私はその頃は軍需工場のあった横浜から岩手の山深い温泉場に疎開していました もちろん一夜に十万人が亡くなった東京大空襲とは規模が違いますが一晩で600人の人が亡くなったこともあるそうです。
これはその時に小学生だった方の書いた文章をもとにプロジェクターで絵本のようにお見せしてお話しした記録で古い書類の間から出てきたものです。
梅雨時の雨の中を必死で空襲から逃れたこと、少し離れた場所から町の中央に上がる炎を眺めたこと、やっとお水のでる水道を見付けて飲んだお水がおいしかったこと。空襲の後で見つからない叔母を捜しに行った学校の庭に、次々に運ばれてき死体の中に叔母を見つけたことをお話しました。
お父さんは終戦後無事に帰還されたそうです。
それから間もなく広島・長崎に落とされた原子爆弾を最後に終戦となります。
もう二度と戦争が起こらないように世界が手をつないでいきたいとそのお話は結んでありました
それを切り絵のようにプラスチックのシートを使って作り、こんな影絵にして写しだしました。グループのみんなで苦労して作ったのものです。
東京大空襲の跡
戦争の記憶は日に日に薄れていきます。それはそうです終戦の時8歳になったばかりの私でさえ、もう84歳、戦争の語り部は少なくなっていきます。
でも、私なりに少しでも戦争の悲惨さを語り伝えて行きたいと思っています。


