今日はいい天気。百合の蕾が膨らんだ。
元は何色かあったのだけれど、放りっぱなしなので最近白しか咲かない。でも楽しみ。
さて母の系譜ははっきりしてきたが、二人の父はどうだろう。
実父は私が生まれて二百日目に亡くなり、母は私を祖母に託して実家に戻ったことは何度か触れた。引き取られたときは継父がいたし、祖母との行き来はしてもなぜか聞くのはためらわれて実父について尋ねたことがない。最近になって古い箱の中から出てきたたった一枚が裏に実父の名がかかれた写真。
なぜか私を育ててくれた祖母の写真は一枚もない。伯父たちがいきているときに一枚くらい手に入れておけばよかった。
祖母は教育者の祖父の元に行儀見習い兼学生として秋田の鹿角郡花輪の旧家から送り込まれたという。何十年たってもかすかに東北訛りの残る人だった。いわば女書生のような立場で送られた祖母を気に入った祖父が妻にしたそうだ。
その祖父が宮田修である。
1874-1937 明治-昭和時代前期の教育者。
明治7年10月3日生まれ。専門は倫理学。明治34年東京の成女(せいじょ)学校講師となり,39年校主。41年成女高女への改称にともない校長となり,没年までつとめた。早大理事のほか,教育諸団体の理事を兼任。昭和12年3月19日死去。64歳。神奈川県出身。東京専門学校(現早大)卒。
とある。いってみれば今の成女学園の創始者ともいわれる人なのだが、そのあとを継ぐべき長男が堪能な語学を生かして日本軍に尽力した咎により追放となり、その間に学校経営はほかの方の手に移った。
今は志望者が少なく廃校の危機に瀕しているそうだが、私が偶然にもここで教育実習をしたときは中高とも生徒はいっぱいいて、水泳部が強い、なかなか評判のいい女学校だった。従妹が近いので二人中学と高校にいて私が実習にきて評判が悪かったら困るから知らんぷりをしようと決めたそうだが、結構生徒に人気があるとわかったら、調子よく廊下で声をかけてきた。でも従妹の組には出なかったと思う。
閑話休題。という訳でこの辺まで出自はわかっているが実父は兵庫の芦屋で亡くなっている。その時何をしていたかわからない。
こちらは継父。仏壇に飾られてある写真。眼光鋭かったが、優しい人でもあった。営業上手で山っ気があり、事業に失敗し、不在地主で失った残りの田畑も全部借金にとられたが、最後は父の才を惜しむ人に迎えていただき、何とか仕事にも復帰していた。長年の暴飲暴食喫煙がたたったのか60代わたしが気づいて宇都宮へ連れてきたときには進行した胃がんで手遅れだった。でも最後は学校を一週間ほど休ませていただいて見送ることができた。(母はなんとヨーロッパ旅行に行っていた!)
彼の父親は大分の庄内というところで村長かなんだかしていて今の久大線(湯布院通るので有名になった)すぐそばを走り、大分へ出かける日は家の前で列車が止まってくれたという眉唾物のエピソードを、地元へ行ったときに聞かされたことがある。もともとは平家の落人の隠れ村だそうだ。
今は大分のその家がどうなっているかはわからない。
婿殿歴史が好きでもっと先祖を詳しく調べれば色々出てきそうだって言うが面倒なのでこの辺で終わりにしよう。
付き合ってくださってありがとう。
今日はしっかり土曜授業で午後部活のお兄ちゃん。家にいる弟のためにも無意識にお弁当作っちゃったので弟は喜んで家族の昼食と一緒にお弁当食べたそうだ。



