昨日動き過ぎてまたちょっと血尿。孫の鼻血みたいなものかしら?とにかく次のCTの結果まで対症療法。止血剤を飲む。

 まあおとなしくしているしかないとお仏壇にはたきをかけて拭いたついでに下の小さな抽斗を開けてみた。

      日光の天然氷を切り出す指導をしたとかで、以前テレビで見た中川嘉兵衛」は曽々祖父にあたる。この繁那(ハンナ)は祖母で割と早くなくなったので記憶は定かでない。私は実父側の祖母と居たからあまりあったことがないからだ。

      

生きている人はだれも居ないからまあ名前なんかどうでもいいけれど消してない七人が繁那さんの子供。この繁一郎さんが亡くなったっため一子相伝の全財産を悪徳弁護士にとられたという事だ。双子の佐代子を除いて五人皆結婚していたので幸い路頭に迷うものはいなかったようだ。

 

 中川嘉兵衛のさらに前は医学本草学の医師であったというがそこまではこの系図にはない。

 

 中川 嘉兵衛(なかがわ かへえ、文化14年1月14日1817年3月1日) - 明治30年(1897年1月4日)は三河国額田郡伊賀村(現・愛知県岡崎市)出身の実業家。横浜元町に横浜氷会社を設立し、北海道函館市五稜郭天然氷函館氷」を切り出し売り出し

 当時の氷は、遠くアメリカボストンからの輸入氷「ボストン氷」であり高価なものであった。これの国産化を試みた。まず医療伝道宣教師のジェームス・カーティス・ヘボン(James Curtis Hepburn)などの指導を受けて1861年(文久元年)富士山麓で試みたが失敗。有望地を求めて北上するが失敗の連続であった。ついに北海道へ渡り、上磯の有川(現・北斗市)でも失敗する。1869年(明治2年)に五稜郭を視察、有望と判断し、1870年(明治3年)に開拓使より濠1万7,000坪、7年間の使用権を獲得、翌1871年(明治4年)結氷670トンを切り出し「函館氷」として商品化に成功した。1890年(明治23年)に五稜郭外壕貸与規則が変更されて競争入札になったのをきっかけに亀田郡神山村に製氷池を設けて事業を継続し、晩年1896年(明治29年)に北原鉦太郎に事業を譲った。1897年(明治30年)、東京の越前堀の自宅で亡くなった。

 彼が創った横浜氷会社は、宮内省御用達となり、またその後身が現在のニチレイとなっている。(wikipedia)

 

 とこういう人の孫であったのが繁那おばあ様。才女だったそうだ。

 その娘のはねっかえりで、社交的、運動は得意だけど勉強は七人の中で一番だめだった〈伯母、叔母たちによると)娘がこの人が私の母美枝子である。

 

私は実父の母親である祖母に似て、いたって堅実で地味と自分では思っている……。

 

 今日のお弁当。

      

お兄ちゃんの弁当箱は部室に閉じ込められているそうだ。