娘は母の日に夕食付きの隅田川周遊のチケットを二人に贈ってくれたことがあった。でもストーカーに会って職場をやめ、閉所恐怖で電車に乗れなくなったり、一人の収入では火の車で贈り物どころではない結婚をしたりして、以後は母の日は手製のアクセサリーやプリザーブドフラワーが定番となった。

 

 私が生まれて二百日くらいで父が亡くなった。そして一年目くらいに母は祖母に私を託して実家に戻った。それまでは母乳で育てられたのだと思うが聞いていない。物心ついた時から母は時々訪れる人であり半日も遊べばかえって行く人であった。

        

   

 結婚して十四年の伯父夫婦に男の子ができ、再婚して戦時中のあわただしさに母は流産を繰り返し、そんなタイミングで私は突如母の家に引き取られた。一晩泣いてあきらめた。六歳の頃だと思う。

 母は一人の兄と六人の姉妹に、それぞれおつきの女中がいるような家庭に育った人だったから私も家政婦さんと呼ばれる人にゆだねられてあまり母に甘えた覚えはない。

 

 私は娘を六日目から引き取って育てた。色々あったがあきらめて子供のいない暮らしに慣れたころだったからその話が福祉事務所から持ち込まれたときびっくりした。ただ福祉士の先生が生徒のことでご相談に行った時私と話して、私を思いつき出張先まできて私に勧めてくださった。五体満足に生まれてきたらでいいからって。私が母になる準備期間は十日間だった。

  2540グラムのチビ。

   

多分私も夫も、少し遠くに住んでいた継父も母も事程左様におっちょこちょい。施設にいくくらいならと育てることにした。特別養子縁組なんて法律ができたのはこの後。母親と家庭裁判所に行ってちゃんと養子縁組をした。   

     

 産休も育休もなしの子育ては大変。母が来てくれて三か月ほどいたが、ご近所で生まれたての赤ちゃんからちゃんと見てくださるという卒業生のお母さんを見つけることができて、家にきたり連れて行ったり、見てくださった。もう亡くなってしまったがこの方のおかげで娘はすくすく育ってくれた。

 

 いつまでも何度も子供をあきらめさせたうえ最後には店を持たせてくれるというもう一人の女性の元に走った男の人をあきらめるには身一つになって自立するしかないと思ったのだろう。母親の家は小さな農家で4人の子供の長女、一人で都会に出て働きながら定時制高校を出たしっかり者だけれど、妙にサバサバした人だった。

 

 母は確かに私の母。でも私の四世代に血のつながりは母しかなかった。不思議な家族で、今も娘の中に私たちとまったく違うものの考え方を見る

事はある。

 家族って何だろう?それでも私たちは家族である。