庭のクレマチス一輪目は穴があけられたが二輪目はちゃんと咲いてくれた。
ミニ薔薇は宇都宮でお土産にいただいた時は15cmくらいの真っ赤な薔薇だったけれど、最近は背丈1メートル超え、白かったりピンクだったり。
今まで何かの機会に書いてきたけれど今日はちょっと栃木方言をまとめてみたい。
私が初めて卒業生を担任したのは東京オリンピックの年だった。鹿沼の農村地帯でも一気にテレビが普及した。1964年(昭和39年)のことだ。
この子たちはオリンピックが終わった次の年に入ってきた子供たちだ。農村の高校進学率は50パーセントから83パーセントに跳ね上がった。そして次の3年後には93パーセントとなる。そんな時代だ。
家庭訪問に行く。だれも居ない。慌ててどこからか出てきたおばあちゃんがいう。
「せんせ様、アマヤ(納屋)にいたんで聞こえなくて、すんません。近所でジャンボ(葬式)ができてよ、父ちゃんもかあちゃんもラントバ(お墓)までついて行ったんで留守なんせ。」???「わかりました。また来ます。」本当は全然わかっていない。学校へ帰ってから地元の先生に翻訳していただく。
「今日は早苗饗(サナブリはあちこちでいう田植え神事)があってそのあと田植えでヤテサマ(手伝いの人)がきたから牡丹餅作ったから先生も食べてって」と重箱持参でくる子。
遠足の帰り「コエーコエー。」っていうから折から夕闇迫っているし、「何か出るの?」っていったら「コエーは疲れたってことせ」と笑われる。
「キドコロネ(うたた寝)して風邪ひいた。
生徒が職員室に座らせられて叱られている「このチクラッポ(嘘)ばかりいってデレスケヤロ(馬鹿者)おすわりしてろ」
夫は疎開農家の長野の言葉ならわかるが採用が栃木に来たので来てしまったという人。学校で「明日は畑の草カッパラウ(草刈する)から用意してきて。」といわれびっくりしたそうだ。
イとエはまるでさかさまの発音「イエンカイ(委員会)があるからツクイ(机)とエス(椅子)並べなさい。」という放送が入る。
作新学院と宇都宮学園(今はこちらは名前変わった)があって希望者数まとめろといわれたから書いていったが学校のことよく知らない。教頭の言葉に従って作新学園,宇都宮学院と書いていった。教頭先生それを見て説明がすごかった
「作新ガクエンのエンはビョウエンのエン、。宇都宮ガクインのインはヨウチインのイン」???
笑いをかみ殺して書き直して行った。
しり上がりイントネーション、無アクセント。雨と飴も同じ。「火にあたるより日にあたれ」という国語教材の時は自分の出ている組以外の組にも範読しに行った。
でも次の卒業生のあたりから方言はどんどん減って、多少アクセントやイントネーションに名残りが残ろ程度。
あっという間に「国の手形」である方言は消えて行った。


