世界は常に協調だ対立だと繰り返している。

 第一次世界大戦の後同盟国であった日本には欧米の軍属の人々が多く滞在した。そして事業家であった母方の祖父の家では鹿鳴館張りに、パーティーが開かれていたらしい。ちょうど二十歳前後の母はパーティーの花だったようだ。

          

 

 そんな母に恋したのがアメリカの若い将校だった。

 これは英語で書かれた手紙。

 

 

        

 

 でも母は下の妹たちが英語得意なのに対してあまり得意でない。ついに彼は達者な日本語をローマ字で書いてラブレターを送ったようだ。

         

  苦労してますねえ。最後のほうに「私はただ愛して愛して愛しております。」なんて書かれています。スゴイ!

 

 母の気持ちが動いたころ、中国の利権をめぐって日米関係は険悪となり、彼は帰国せざるを得なくなる。母を連れて行きたくとも国家間の状況を見ると祖父母は賛成できなかったと思うし、母もそこまで真剣ではなかったように思える。のんきな深窓の令嬢であったらしい。

 そして母は1936年春父方の祖父が設立した女学校で教鞭をとっていた、控えめで優しい〈叔母の説)私の実父と結婚した。

          

 新婚旅行で行った箱根らしい。

  

 その父は私が生まれて二百日目、当時は死に至る病であった肺結核に肺炎を併発して早世する。多分29歳くらいだったようだ。

          

 昔の人って老成して見える。私が持っている唯一の実父の写真である。

 肺結核であったため、父は私を病室に連れてくることを許さなかったという。ことあるごとに母は父のもとに写真を届けたらしいが私が持っている写真はこれだけ。

      

 父方の祖母と一緒に暮らしている長男である伯父には子供がいなかったため、若い母は再婚を目指して実家に戻り、私は6歳半を過ぎるまで祖母に育てられる。

 叔父の家では結婚十四年目に子供が生まれることになり、逆に再婚した母は流産を繰り返したため、継父は私を引き取りたいと申し出確か幼稚園の年長の時私は母の元に引き取られた。

 

 ところで後日、この米軍将校はマッカーサーの副官となって日本に駐留したこと、彼も執務室で素顔のマッカーサーに会ったこと、戦後の貧しい暮らしをする私たちのために彼はおいしいものを食べに連れて行ってくれたり様々な食品を持ってきてくれたことは以前に書いた。

 

 倒産したり浮き沈みの激しい継父だったが、とにかくお嬢様を貫く母の将来をおもんばかってしっかり厚生年金だけはかけておいてくれ、母はそれを一銭たりとも生活のために払うことなく買いたいものを買い、行きたいところに行って過ごした。

 お嬢様としていつも「私はいいのよ。」といいながら写真の中心いおさまると母がよく連れて歩いた娘は笑っていたものだ。

 

 なんとtもうらやましい生涯ではある。