農村の学校。まだ高校進学率50パーセント時代の頃のお話です。

         

 農家の長男は地元の農業高校に進むか、そのまま家の仕事を継ぐかでした。

 お父さんは地元の市会議員、大農の一人息子姉と妹がいました。お父さんは「勉強したら○○高校に行け。」といったそうですが、本当は地元の農業高校に進ませる心づもりだったようです。

 1年の時から野球はレギュラー、文武両道を絵にかいたような彼を初めて中学3年を持つ私が担任しました。その頃進学や就職はほとんど学校で指導していました。今栃木県はどうなっているかわかりませんが、ここ埼玉では学校の成績と模試の成績をもって夏休みに親子で希望の学校と個別にはんしあってくるようです。

 彼は「お父さんが○○へ行っていいといった。」と主張します。でもお父さんは後継ぎだから地元の農業高校への一点張り、彼はそのあと1週間ばかり机に突っ伏したり窓の外をぼんやり眺めていたり、かわいそうで見ていられなくなりました。

 校長に直談判PTA会長であり権力者であるお父さんと私は対立する覚悟を決めました。「私は子供の側につきます。」

 彼は栃木では一番の県立普通高校に進みました。ただ大学を卒業したら地元に戻るという約束をさせられました。

 高校の三者懇談「先生が決めたんだから先生がいけ。」とお父さんに言われ休暇を取って3回も行きました。高校の先生はあきれ返っていました。

 高校卒業の時東大紛争が起き入試がありませんでした。「地元の大学か浪人しないで行けるところでなければ出さない。」という父親に従い有名私立を卒業、地元にかえって来ました。

 市にかかわるセンター長を務め、商工会議所の長を務めるなどして今でも活躍していますがこれは60歳の同年会の写真です。、

      

 ずっと聞けなかったこと初めて聞きました。「私の進路指導はあれでよかったのかしら?今更遅いけれど、地元へ帰る約束をあなたはその場逃れじゃなくて実行したけれど、私にも責任があるから。」

 彼は言いました。「先生には感謝しています。大学に進む夢もかないましたし、今の立場にも満足しています。」それでも彼の二人の息子たちは東大に進み、そのまま新聞社と大企業で働いています。彼は帰ってきたければ退職してからでも帰ってこい、ずっといたければ東京にいなさいといっているそうです。それを聞いて今でも胸が痛みます。

 進路指導は難しいです。

 彼は一例にすぎません。たくさんの例で、私のしたことはあれでよかったのか今でもわからないままでいることがたくさんあるのです。