地下のあの部屋は何の部屋だったのだろう。むき出しの机とベンチのような椅子しかなかった。8時から120分単位で続く授業に休み時間はないが教授は大体10分がとこ遅れてくる。その間に買ってきたパンをかじって次の教室に移動するには便利だったし、あいた時間おしゃべりするにも便利だった。

 貧乏旅行の相談はいつもきっとそこで始まったに違いない。入学して半年、試験休みのころだったのだろうか?その渦の中に巻き込まれてなけなしのお金をはたいて参加したのは、たまたま家庭教師も休みだし月謝ももらいたてだっただからだろう。

「昭和31年10月6日から7日、クラスの有志14名参加」と夫の持っていたアルバムにある。

                      

 往路は遅い船に乗り朝ついて一日観光し、復路の船では歌声喫茶で歌うようなロシア民謡を合唱した記憶がある。マスプロ大学だからクラスといってもこの旅で初めてあった人も2,3人いたような気がする。

 ここが出発点で友達の輪が広がり一月半後の演劇につながったのかもしれない。

 

 その次は私たち女性陣が夏休みに旅行したいねといいだしたのだと思う。それもあの部屋で好物のツイストドーナツをかじりながらのことだったに違いない。「知り合いの旅館とか安く泊まれるところない?」あいにく私にはあったんだな。

 実父側、私を育ててくれた祖母の実家が秋田の花輪で旅館。もう一人その祖母の甥で子供の頃私が一番なついていたお兄ちゃんが群馬県猿ヶ京で旅館の婿さんとなり主に収まっている。じゃあその両方へ行こう。なんと無茶な。

 結局女の子はいけるのが3人、その話を聞いてのってきた男性陣が3人。5泊6日のうち2泊は列車のなか。すべて鈍行。

 

                 

 夜の7時頃上野をたって朝4時仙台。ちょっと松島を見物してこの辺りで手持ちのおにぎり食べてまではよかったが仙台から好摩の列車が多分3時間くらい水害で線路補強のため周りに何もない小さな田舎駅で止まった。仙台でお弁当買えばばよかったが好摩で大丈夫だろうと買わなかった。空腹に耐えかねて駅の中でどうにかならないかときいたら工事の人のための炊き出しご飯の残りを竹の皮にのせておまけに味噌漬け一切れずつ、もう一人は駅近くの農家で何か買えないかといったらただで鯖の水煮缶開けてに醤油かけて恵んでくれたそうな。男性陣が頑張った結果だ。

 あの時のひとにぎりのご飯の美味しかったこと!鯖の水煮最高!私たちのリレー小説が面白いと近所の乗客から差し入れの飴をもらったりしたっけ。

                      

 

 花輪の旅館についたらねぶたが出てるから見ておいでと追い出されて大きな熊皮の太鼓の音がすきっ腹に響いて泣きたくなった。

 ほとんどただみたいな宿泊料でごちそういっぱい出してもらえたのが夜の8時過ぎ。お替わりありますか?っておひつごとお替わりして男性陣は5杯も食べた。

 十和田湖見物して青森夜出発12時間ほとんど寝て後閑着。猿ヶ京でも大サービスしてもらって合宿に来ていたアメフト部員がおかずあさりに来たっけ。

  最後に渋谷で餃子食べて中野駅に帰りついたら残金10円だったのは覚えている。

 

 若いからできたこと。

 

 そして一緒にいた男性の中に夫がいるまさか結婚するなんてこの時は思ってもいなかったのにである。