今週の木曜会は赤塚高仁先生でした。

前回1月のご出演では、日本人が失いかけているヤマトの心をイスラエル人に学ぶというお話でした。今回はお話しいただいた中から、1944年9月15日か72日間パラオ諸島にあるペリリュー島での日本軍守備隊とアメリカ軍の激戦についてのお話について書かせていただきます。

 

先生は今年7月に60名のツアーを組みペリリュー島へ訪れました。何度かペリリュー島を訪れている先生。キッカケは、ペリリュー島に軍医として三重から出征し、唯一生き残って帰られた上島先生との出会いでした。上島先生と親交のあった先生は幾度もペリリュー島での戦いの話を聞かされました。

その浜辺は鮮血でオレンジ色に染まり、その様からオレンジビーチと呼ばれるようになりました。上島先生はオレンジビーチの砂を持ち帰り、大切に持っておられていました。「もう一度島を訪れたい」という強い願いは叶わず、上島先生は亡くなりました。上島先生の遺骨を抱かえ散骨に行ったのが初めてのペリリュー島訪問でした。

 

第二次世界大戦で激戦地となったペリリュー島。幅3キロ、長さ9キロの小さな島での戦いは、東洋一の滑走路があったからです。その地をアメリカに占領されると、そこから大きな爆弾を積む飛行機が飛び、日本本土への爆撃が難なく行われてしまいます。

中川(なかがわ)洲男(くにお)大佐率いる水戸第二師団始めとするペリリュー島の守備隊は

「突撃してはいけない。最後の一兵になるまで徹底抗戦せよ」と命令されてペリリュー島にやって来ました。島中を調べつくして、島ごとを要塞にして上陸してくる米兵と迎え撃つ作戦をとります。

 

戦闘に先だってペリリューの島人たちは日本と共に先祖の島を守るために戦う意思を中川大佐に進言します。ところが予想外にも、中川大佐は、

「帝国軍人が貴様ら土人と一緒に戦えるか!」と一喝したのです。

島人たちはその時まで友情を育んでいたはずの日本人も、やはり白人と同じように自分たちを見下していたのかと失望します。

ところが、中川大佐があんなことを言ったのは、自分たちを救うためだったのかと後に気づきます。

 

島人たちを安全な島へと移動させる軍艦が遠く離れたのを見計らって、ジャングルから次々と日本兵が飛び出して来ました。その中に、日焼けして真っ黒な顔に白い歯を見せ、笑顔で手を振る中川大佐がいました。手を振りながら兵士たちは「ふるさと」を歌い見送っていたそうです。彼らはこの島で死ぬことを覚悟していると、その時に島人たちは悟ります。

お陰で島人は全員助かりました。

 

小さな島ペリリューでの戦いは、アメリカは甚大な被害を受け、日本の凄さをいやというほど知らされた戦いとなりました。「3日間で終わるだろう」と予想していた戦いは、日本軍の凄まじい抵抗にあい72日間に及びました。それほどまでに、中川洲男大佐率いる守備隊は強かったのです。

 

 

「パラオの人たちは日本人にとても優しくしてくれます。それは先人たちがパラオの人たちに優しくしてきたからです」と先生。

 

先生が初めてペリリュー島を訪れた時、ジャングルを歩いていて

「帰りたい、帰りたい…」という兵士たちの声が聞こえてきたそうです。ゼロ戦や戦車もまだ島に残っています。壁には、

「チチハハノ カヲガミタイ」と文字が書いてありました。18歳か19歳の未来ある兵士たちが日本を守るために命を捧げ散っていきました。

日本をもっと良い国にしなくてはいけないと、この実話を語り継いでいこうと先生は決心されたそうです。

 

中川大佐の碑には

「人は憎しみのためには戦えない。愛のために戦うんだ」と刻まれているそうです。

 

かなりの時を経て、最後まで戦い抜いて自決した中川大佐の遺骨が洞窟で発見されました。その洞窟への道が通じていたということで、今回のツアーの全員で訪れたそうです。それはとても厳しい場所にありました。

中川大佐の遺骨が見つかった時、遺骨をご家族元へお届けしようと大佐の奥様に連絡をしたところ、

「兵士の方全員が帰った後でなければ、主人に怒られます。最後のひとりが帰った後でお返し下さい」とおっしゃられたそうです。

中川大佐の意志をしっかりと継いでおられる大和撫子の精神。あの頃の多くの女性がそのように律としていたのでしょう。

後に、先生は熊本にある中川大佐のお墓を参ったそうですが、未だお墓には遺骨は納められていなかったそうです。

 

日本国民、そして戦争に関係のない島人を守りたいと、自分の命まで犠牲にして戦った英霊たち。戦争はあってはならないと強く心に刻みました。

 

赤塚先生、お客様、有難うございました。

                         (令和元年8月31日 古谷 記)