今週の木曜会の講師は齊藤慶太先生でした。木曜会には昨年8月以来のご出演になります。

 

「今から13年半前に初めて齋藤慶太と会いました。一緒に食事に行き、手を貸してくれと言うから手を出したら酢豚が食べたいと言っている、と。何これ?これがキネシオロジーの始まりでした。まさか筋肉反応で自分の中の想いを伝えて来るとは思いませんでした。本当に酢豚を頼みたかったんですよ。それ以来キネシオロジーのファンになりまして、自分でも使うようになりました。彼との出会いは本当に劇的でした」と田村が齋藤先生をご紹介しました。

 

今回は精神的、肉体的トラブルの根本原因を探り当て、その解決策までのたどり着き方を実践していただきます。

 

「キネシオロジーが現実に結果が出るのかどうかは、キネシオロジスト自身が結果が出ると伝えても、怪しいじゃないですか。治療家がこれ治るよ、と言っても怪しいですよね。これを判定出来る機械がメタトロンです」と先生はおっしゃって、メタトロンの実践から始まりました。

 

メタトロンという機械はロシアで開発されました。

「十人十色」ということわざがありますが、感情や欲求のエネルギーは「一人十色」です。日々起こる出来事に対する思いは、人それぞれで、各個人のいろんな受け止め方が感情になります。私たちの身の回りにある、物理法則の通用しない、意識や感情に影響を受ける自然界の最小単位「量子エネルギー」を測定します。症状が出ている物質そのものを測ったりするCTやMRIと同じ類の機械ではないそうです。

 

メタトロンを使用し、見えない世界を可視化します。

全身をスキャンして、エネルギー状態を測定することによって、身体のアンバランスを教えてくれます。まずそれを見ることで、意識の変化を促します。

 

実は木曜会の前に、田村も先生に治療していただきました。

メタトロン・オペレーターの河口力さんがメタトロンを使用して、身体の悪い箇所を特定し、その後先生から治療を受けたそうです。

現在河口さんは、鹿児島でメタトロンを使用した自然治癒力を高めるサロンを開いています。

 

最初に会場のお客様に、田村の身体で特定された悪い箇所を画像で見ていただきました。画像で示された場所は、前頭前野(正式名で、ヒトをヒトたらしめ,思考や創造性を担う脳の最高中枢であると考えられている部位、前頭葉の一番前の部位)のエネルギーが乱れているそうです。先日受けた心臓の僧帽弁不全の手術を受けた部位ですが、弁には特に問題は見つからなかったのですが、心臓の血管の中の赤血球に乱れが見られました。そこで先生は、ブレイン音叉、波動水、エジプトのインセンス等を使用し、田村の治療を行ったそうです。治療後の状態のメタトロンでの再測定は、残念ながら制限が解除されていないということで、再測定は不可能になりました。結果は改めてご報告して下さるそうです。(制限が解除など意味不明ですが、先生はそうおっしゃいました。)

 

そこでメタトロンを使用したキネシオロジー・セラピーを会場で行うことになり、ご興味のあるお客様に参加していただけるように呼びかけた所、沢山のお客様がご希望されました。その中から先生はお一人のお客様をご指名し、公開セラピーを行いました。

 

メタトロンで乱れたエネルギー場所を細胞レベルまで特定し、次にカウンセリングをしながら、精神的、肉体的トラブルの根本原因を追究していきます。

お客様は複雑な家庭環境ではあるが、特に問題はないと仰っていましたが、先生はカウンセリングで、お客様の存在意識から次々と問題を引き出していきました。その後、先生が勉強されてきたすべてを駆使して治療に当たられました。

【今回のセラピーの流れ】
・メタトロン測定
・潜在意識カウンセリング
・スピリチュアルエッセンス
・アストロキネシオロジー
・ブレイン音叉
・チャクラ音叉
・ライト修正

セラピーを受けられたお客様も、最初は頭痛がしていたそうですが、終了後には頭も心もスッキリされたと仰いました。

場内のお客様も、メタトロンで遺伝子レベルまでエネルギーの乱れを特定でき、更には遺伝子レベルまで修正される先生のキネシオロジー・セラピーには驚いたご様子でした。ご興味のある方は、エイトスターで当日の様子を録画したDVDを販売しますので(料金 1.500円)、参考にして下さい。

 

「筋肉反応は必ず使っていたのに、今日は使ってなかったね。一芸に秀でてくると技法を使わなくても自分で分かっちゃうの。彼がその典型。僕もそうなの。振り子振ってたけど、使わなくても数値分かっちゃう。関係なくなっちゃう。随分進化しちゃって。お互いに」と笑いながら話す田村に、先生も笑顔で

「令和に入って、更に進化しましょう!」とお答えになり、木曜会は閉会いたしました。

 

齋藤先生、河口さん、お客様、有難うございました。

                                   (令和元年6月1日 古谷 記)