『ジョン万次郎』って聞いた事がありますか?

 

私は、正直小学校だったか、中学校だったか?忘れたが国語の教科書に載っていたのをかすかに覚えていたが、はっきり言って

どんな人だったか?は、全く分からなかった。

 

今回のハワイでの事。

 

Sさんが宿泊されていたメゾネットタイプの400㎡のお部屋のベランダで初日に談笑している時に、

 

『ジョン万次郎って知っているか?』

 

とそこにいる私を含めた仲間にお話を始めた。

 

上記で書いたように私は全く覚えていなかったし、一緒の仲間たちも同様だった。

 

以下、Sさんのお話の代わりとして、Wikipediaの『ジョン万次郎』を今回のブログで必要な情報部分だけ抜粋引用しますが詳しく知りたい方は下記のWikipediaをご覧ください。

 

 

 

ジョン万次郎 江戸時代末期から明治にかけてアメリカと日本で活動した日本人である。日米和親条約の締結に尽力した後、通訳・教師などで活躍した。

万次郎は、現在の高知県土佐清水市中浜で半農半漁で暮らす貧しい漁師の家の次男として生まれた

万次郎が9歳のとき父が亡くなり、また、母と兄が病弱であったため、幼い頃から働いて家族を養った。漁師になることを強く希望したため、母親の計らいで宇佐の筆之丞の元で漁師として働く事になったという

漂流

1841年1月27日の早朝の現・土佐市宇佐町、14歳になっていた万次郎は、足摺岬沖での鯵鯖漁に出航する漁船に炊事と雑事を行う係として乗り込んだ。仲間の構成は、船頭の筆之丞(38歳。のちにハワイで「伝蔵」と改名)を筆頭に、筆之丞の弟で漁撈係の重助(25歳)、同じく筆之丞の弟で櫓係を務める五右衛門(16歳)と、もうひとりの櫓係の寅右衛門(26歳)、そして炊係の万次郎(14歳)であった

ところが、万次郎達は足摺岬の南東15キロメートルほどの沖合で操業中、突然の強風に船ごと吹き流され、航行不能となって難破してしまう。5日半(資料によっては10日間)を漂流した後、伊豆諸島にある無人島の一つである鳥島に漂着し、この島でわずかな溜水と海藻や海鳥を口にしながら143日間を生き延びた1841年6月27日、万次郎達は、船長ウィリアム・ホイットフィールド率いるアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号が食料として海亀を確保しようと島に立ち寄った際、乗組員によって発見され、救助された

しかし、その頃の日本は鎖国していたため、この時点で故郷へ生還する術はなく、帰国の途に就いた捕鯨船に同乗したままアメリカへ向かわざるを得なかった。1841年11月20日、ハワイのホノルルに寄港した折、救助された5名のうち万次郎を除く4名は、宣教師で、ハワイ王国の顧問であったGerrit P.Judd の計らいでこの地で船を降りている。寅右衛門はそのまま移住し、重助は5年後に病死、筆之丞(伝蔵)と五右衛門はのちに帰国を果たしている

 

 

Sさんは、上記のようなお話をされた。

 

そして、

 

『重助のお墓をずっと探してたんだ!ハワイに来る度に。明日探しに行くから!』

 

とおっしゃられた。

 

 

つづく