「あっ、どうもお久しぶりです」

その日の仕事を終えて、帰ろうとした時、
北陸工場のトップがふいに現れた。 
彼は前職の先輩であり、
この会社に転職して来てから
話すようになった間柄だ。
それまでは見かけることはあっても、
交流はなかった。

「エイトさん、今度B部署なの?」 

「ええ、まだ辞令はでていませんが」 

「もしかして言っちゃいけなかった?」 

「大丈夫ですよ。
 すでにB部署の会議には出てますし」

今年に入ってから、自部署よりも
B部署の業務の比重が大きくなっていた。
正式な異動は4月だが、業務の7割は
すでにその引継ぎで埋まっている。

不思議なもので、2026年を迎えてから、
自分が交流する人々がガラリと変わった。 
B部署の業務が増えたことで、
工場や製品企画部など、
今まで接点のなかった人たちと
言葉を交わす機会が増えたのだ。

一方で、2025年に頻繁に
交流があった人たちは、
関連施設の閉鎖などもあり、
すべてこの会社を去ってしまった。
現在の業務パートナーとも、
4月には別々の部署へ行くため、
関係性は解消されることになる。

 

2025年に業務外でつながりができた
人たちの中には、今も関係が
続いているケースもあるが、
大部分は自然と「仕分け」が
行われ、消えようとしている。

これまで自分は、誰かの役に立ち、
気に入られる「いい人」になろうと
努めてきた。しかし、そう振る舞えば
振る舞うほど、逆に心の深淵には
孤独が溜まっていった。

それは、自分が他者のニーズを
満たすための「商品」となってしまい、
価値決定を、完全に他者へ
委ねてしまっていたからだ。

哲学者エーリッヒ・フロムが
警鐘を鳴らしたように、
商品の価値が買い手の機嫌ひとつで
決まるのと同様、他者の評価に依存した
自尊心は極めて脆弱だ。
誰も自分の価値を「買ってくれない」と
感じた瞬間、たちまち「無価値な不良品」
であるかのような絶望に突き落とされる。

では、相手本意(他者軸)をやめ、
自分のみにベクトルを向けた
「利己的」な姿になればいいのだろうか?

否、そうではない。 利己的な心理とは、
決して「自分が大好き」なのではない。
むしろ「自分を守ることで精一杯」という、
愛情が欠如した状態なのだと思う。

自分の心が溺れている状態で、
隣で溺れている誰かを助ける余裕など
物理的に存在しない。そのため、
利己的な人は相手を愛しているのではなく、
相手を「自分を満たしてくれる道具」
として見てしまう。それが思い通りに
動かないと、「裏切られた」

「愛してくれない」という

被害者意識に囚われるのだ。

一見すると、自分の欲求を押し通す
「利己的な人」と、相手の言いなりになる
「相手本意の人」は対極に位置する
ように見える。しかしフロムの視点に

立てば、両者はともに同じコインの裏表に

過ぎない。どちらも

「自分で自分を愛せていない」
という決定的な欠乏感を抱えている。

内側に愛情の源泉がないため、
他人に依存せざるを得ない。
この「奪う」か「差し出す」かの
不健全なループこそが、
フロムの指摘する「愛情の崩壊」の正体だ。

この場合、どちらの立場を選んでも、
心の穴を「外からの刺激」で
埋め続けることになる。

前者は、酒、エンタメ、SNSの「いいね」、
不要な買い物などの消費によって。
これらは心の穴を一時的に塞ぐが、
根本的な「人間としての繋がり」
ではないため、すぐにまた
空腹感が襲ってくる。

後者は、周囲に合わせて思考し、
空気を読むことによって、
「集団」に属している安心感を
得ようとするが、それは「個」としての
自分を殺しているため、
結局は「群衆の中の孤独」を
強める結果にしかならない。

つまり、これら一時的な
「消費」や「鎮痛剤」は、
永遠に不安を解消することはなく、
心は渇き続けるのだ。

フロムは愛情を「自分の生命力を
自ら与えること(能動的行為)」
と定義した。

利己的な人は、もらうこと(受動)しか
考えていないため、愛せない。
 相手本意の人は、見捨てられないための
「取引」として尽くしている
(受動的な防衛)だけであり、
真の意味で自発的に愛情を
与えているわけではない。

もし、相手に「NO」と言ったことで
不機嫌になったり、責めたりするならば、
その人はあなたを「一人の人間」
としてではなく、自分のニーズを満たす
「便利な道具」として見て
いただけに過ぎない。その不機嫌の責任を、
こちらが背負う必要はないのだ。 
この線引きこそが、「能動的な生き方」
への第一歩となる。

本当の愛情を手にするためには、
自分のコップを自分で満たす
「自己愛(自らを愛する力)」が不可欠だ。 
それは、他人から愛をもらおうとする
「受動的」な態度から、自らが生命力を

発揮する「能動的」な態度へと

切り替えることである。

自分が満たされ、そこからあふれ出した
優しさを他人に分かち合う。 
この見返りを求めない心の状態こそが
真の愛情であり、内側が満たされているからこそ、
「奪われる恐怖」も消えていく。

自分を愛せる人は、他者を愛する能力も
持っている。そのため、一人でいても
「世界と繋がっている」という

感覚を持てる。
他人に「そうなって、こうなって」と
コントロールしようとしないため、
結果として質の高い人間関係に恵まれ、
孤独が「恐怖」ではなく
「静かな時間」に変わるのだ。

2026年はもう「いい顔」をするのは

止めよう。一時的に

「冷たい人間になった」という

罪悪感や関係が壊れることへの恐怖に
襲われるかもしれない。
けれど、それもまともな「人間」に

戻るための尊い成長痛として、

捉えていこう。