気づけば彼女は、
1年以上、自分の担当だった。
*
30代の頃から、
肩や腰の痛みを抱えるようになり、
整体やマッサージに通うことが増えた。
この土地に越してきたときも、
荷ほどきもそこそこに、
真っ先に探したのはそういう店だった。
その中国整体は、近所にあった。
それから、気づけば15年になる。
在宅勤務をするようになってからは、
痛みはいつも体に住みついていて、
通う理由がなくなることはなかった。
施術者は全員中国人。
電話で日本語の受け答えができるのは
1人か2人で、ほとんどは
決まった接客の言葉しか話さない。
これだけ長く通っているが、
未だに誰がオーナーなのかわからない。
現場を仕切る人もちょくちょく変わる。
施術者は、就労ビザなのか、
それとも観光ビザなんじゃないかと
思うくらい、すぐに消えてしまう。
子供のいる人もいたから、
日本に暮らしている人も
いるのだとは思う。
それでも、長くて1年ほどで
いなくなってしまう。
*
ここしばらく自分を担当しているのは、
30代後半くらいの女性だ。
子供がいる。
予約は月に1回ほど、
ホットペッパーで入れている、
いつも「前回と同じ」ボタンを
押しているため、施術者も、
自然と彼女のままになっていた。
ある日、予約履歴を見て気づいた。
彼女の指名は、かれこれ1年になっていた。
自分は積極的に話す方ではないし、
彼女が訊くこともだいたい決まっている。
「キョウ、ドコイタイ?」
「サムクナイ?モウフイル?」
「イタカッタラ、イッテ」
その程度だった。
週末は混むので、
平日のテレワーク終わりに行くことが多い。
そんな日は、言葉がひとつ増える。
「キョウ、ヤスミ?」
交わすのは、それくらいだった。
多くを訊かれるよりは、楽だった。
*
その日は金曜日だった。
翌週に出張が入っていたので、
その前に体をほぐしておこうと思った。
ひと月ぶりの店は、
少し様子が変わっていた。
いつもの彼女のほかに、
20代くらいの男女の施術者がいた。
どちらも見たことのない顔だった。
受付の固定電話は、
業務用の携帯に変わっていた。
そして客からの電話を
受けているのは彼女だった。
ひと月のあいだに、
彼女は店を回す側に
なっていたらしい。
その影響は、自分の施術が
始まってから気づくことになった。
うつ伏せになると、見えるのは
顔の穴の向こうの床だけになる。
そこを、彼女のサンダルが
行ったり来たりする。
「チョット、ゴメン」
ストップウォッチの止まる音。
携帯をつかむ気配。
サンダルが、奥の部屋へ遠ざかっていく。
予約の電話だろうと思い、
気にはしなかった。
しかし、その日の電話は尋常ではなかった。
マナーモードの携帯が、
バイブ音を立てて何度も鳴り続ける。
そのたびに、
「ゴメンネ」
と言って、彼女は場を離れた。
若手の2人は、自分たちの施術を
とうに終えていた。
けれど電話には出られない。
奥の部屋で、ただ待っているようだった。
戻ってきた彼女の手は、
少し冷えていた。
「シュウマツハ、オオイネ」
そう言って、彼女は再開した。
しばらくすると、
またバイブ音が鳴った。
「ホントニ、ゴメンネ」
奥から話し声が漏れてくる。
何か、客ともめているようだった。
「ダイジョウブ、キョウノヨヤク
ゼンブウマッタカラ」
自分が終わるのが19時30分。
その後にも、何人も入っているのか。
あるいは、彼女の指名が多いのか。
ここの女性たちは、
皆ほとんど化粧をしていない。
髪をひとつに束ね、
同じ色の制服を着ている。
その中で、彼女だけは違った。
素顔のままでも、
目鼻立ちがすっと整っていて、
店に入ると、つい目が行く。
指名が彼女に集まるのも、
無理はないのかもしれない。
「アシタハヤスミ?」
戻ってきた彼女が訊いた。
「ああ、はい」
「イイネ、ワタシシゴト」
「忙しいんですね」
うつ伏せのまま、
自分は声だけで応えていた。
「リュウサン、ヤメチャッテ
ワタシヒトリデ、マワシテル。
ダカラタイヘン」
劉さん?前に店を仕切っていた人か?
正直、自分は施術者の名前を
ほとんど知らない。
指名までしているのに。
ブーン、ブーン。
また携帯が鳴った。
「ホント、ゴメン」
ほぼワンオペのこの人を
指名し続けていいのだろうか。
自分はそう思い始めていた。
若手の2人は、手持ち無沙汰に待っている。
今、言うべきか。
「ゴメン、ゴメン
キョウ、ジカンダイジョウブナラ、
スコシ、サービスデ、エンチョウシマス」
本当は帰りたかった。
けれど好意なので、無碍に断れず、
応じることにした。
その後はしばらく、
携帯は鳴らなかった。
店の中が、急に静かになった。
聞こえるのは、背中を押す彼女の
息づかいだけだった。
その静けさの中で、
彼女が不意に口を開いた。
「ウンドウカイ、オベントー
テヅクリガイイカナ、
カッテモイイカナ」
誰に訊くでもないような、
小さな声だった。
いきなり、私生活の話だった。
彼女には男の子がいる。
夏休みの時期、うつ伏せで
施術を受けていると、
顔の穴の向こうに、小さな足が現れた。
子供が彼女のそばに来て、
中国語で何かを訊いていた。
言葉はわからなかったが、
母親を呼ぶ声だということだけはわかった。
おそらく、その子だろう。
ネットの空き状況を見る限り、
彼女は相当働いている。
朝から夜まで、ほとんど空きがない。
運動会の朝、弁当を作る時間は
あるのだろうか。
旦那さんは手伝わないのだろうか。
ふと彼女の左手が目に入った。
人差し指と中指には指輪をしているのに、
薬指にはしていなかった。
まあ、指輪のつけ方なんて
人それぞれだろうけど。
「ごめんなさい、
どちらでもいいのでは?
お子さんに訊いた方が……」
それが、自分の精一杯の答えだった。
彼女は、少し間を置いて、
「ソウネ」
とだけ言った。
背中を押す手が、
一瞬だけ止まった気がした。
自分には子供がいない。
それに、運動会に家族が来て、
レジャーシートを広げて
一緒に弁当を食べた記憶もない。
一人で、教室で食べていた気がする。
「休まなくて、大丈夫なんですか?」
「ガンバラナイト。
デモ、ヒジトカ
スゴクイタイ」
かなりの力で押してくれるのだから、
それはうなずける。
店のシフトも、オペレーションも抱え、
体もボロボロなのだろう。
自分は次から指名を変えようと思った。
彼女に集中している客を、
少しでも若手に流せれば
楽になるのではないかと考えた。
まさに会社の管理職の考えだった。
*
延長分も含めて、
ようやく施術が終わった。
支払いを済ませると、
彼女は出口まで見送りに来た。
「マタ、オネガイシマス」
「あの~、ずっと指名してますけど、
大変そうなので、
他の人に替えましょうか?」
その言葉を聞いたとき、
彼女の表情が変わった。
「ワタシ、ヘタ?ダメ?」
施術中は見えなかった顔を、
そのとき初めて正面から見た。
悲しそうな顔だった。
そして、彼女がずいぶん痩せてたことに気づいた。
「いや、体の方が心配ですから」
「ダイジョブ、シュマツイガイノヘイジツ、
ヒマ。キャクスクナイ。
オニイサンハ、ワタシノラッキー」
そう言って彼女は、
自分の腕を両手で軽く包んだ。
さっきまで自分の背中を押していた、
細い手だった。
「わかりました。じゃあ、
またよろしくお願いします」
そう言って、店を出た。
*
「おにいさん」か。
1年担当してもらっていたけど。
まあ、自分も彼女の名前を知らないしな。
互いに名前も知らない。
それでも彼女にとって自分は、
毎月のように指名してくる客だった。
子供を抱えた彼女にとって、
その指名が外れるのは、
きっとかなり厳しいことなのだろう。
「ワタシヘタ?ダメ?」と訊いた顔は、
そういう顔だったのかもしれない。
以前の自分なら、
少し同情して、通う回数を
増やそうかと考えたかもしれない。
けれど今は、体だけでなく、
頭も心もすり減っていて、
その気さえ湧かなかった。
それにしても、
「ワタシノラッキー」とは
どういう意味だろう。
優良顧客ということか。
あるいは、資金源か。
ふと、そんな言葉が浮かんだ。
ただそれに何も感じていない自分は、
やはり疲れているのだろう。