NVIDIAのCEO、
ジェンスン・フアン氏の
インタビュー動画を観た。
「これまで出会った中で
最も賢い人は誰か?」
という質問の中で、
彼は「賢さ」の定義が
変わってきていると述べた。
従来の「賢さ」、つまり
知識が豊富で技術的な問題を
スピーディーに解ける能力は、
もはやコモディティ(汎用品)であり、
これまで最も知的な職業とされていた
ソフトウェア・プログラマーが、
今やAIによって真っ先に
代替されているのが、
何よりもの証拠だと述べた。
では、これからの時代における
「本当の賢さ」とは何か。
フアン氏の答えはこうだった。
技術的な鋭さと、人間的なエンパシー
(共感力)を併せ持つ人。
言葉にされないことを
推察し、問題が表面化する前に
「直感」で察知して、
未然に防ぐことができる人。
その直感は単なる勘ではなく、
データ分析、第一原理、人生経験、知恵、
他者を感知する力の組み合わせから
生まれると言う事だった。
そして、そういう人は
必ずしもペーパーテストで
高得点を取るとは限らないと
この話を聞いたとき、ふと思った。
フアン氏が語る「新しい賢さ」は、
日本人が古くから大切にしてきた特性と、
驚くほど重なるのではないかと。
「言葉にされないことを推察する」
それは「察する文化」であり、
空気を読む力。
また「問題を未然に防ぐ直感」
それは「気配り」であり
「先回り」の精神に近い。
「他者を感知する力」、
それは「思いやり」そのものだ。
もちろん、日本の「思いやり」や
「空気を読む力」は、人間関係の
摩擦を避け、和を保つために
使われがちだという側面もある。
フアン氏が求めているのは、
あくまでも
「問題を解決し、価値を生み出すため」
の共感力だ。
そこに少しだけ違いはあるものの、
このベースを持っている日本人は、
AI時代において有利に働く
世界中のビジネスにAIが浸透していく
スピードが加速する中で、
日本という国は少し事情が違う。
最近では減っているかもしれないが、
まだこの国では、根回しという
人間的な配慮が優先される。
特に同族会社に勤めている
自分は強く感じている。
誰が反発しそうかを事前に察知し、
組織内の摩擦が起きる前に手を打ち、
関係者全員が納得するような
落とし所を見つける。
効率だけを考えれば
回り道かもしれないが、
未だに必要とされる場面がある。
そしてこの分野は、
AIが最も苦手とする領域であり、
人間しかできない。
AIのロジックには、
このような非効率な挙動は
存在しないのだ。
しかしこの根回しにより、
全体の合意が形成されれば、
全員が一丸となって進める
強固な実行力がある。
根回しは、見方を変えれば
「高度な共感力と危険察知能力の塊」
なのだ
AIに対する「信頼」のかたち
欧米や中国で進むAIの導入について、
日本はその進み方が遅い。
それは日本人の
「何に対して信頼を置くか」
の基準が独特だからだと思う。
確かに検索程度なら
その利便性はある程度高い。
ただ複雑になると、
AIがどういうプロセスで
判断を下しているのかわからない。
このようなブラックボックスに対して、
本能的な不信感がある。
何かトラブルがあったときに
「AIがそう判断しました」
では納得しない。不便であっても、
顔の見える担当者に責任を持って
対応してほしい。そういう感情的な
安心感が、テクノロジーの合理性を
上回る国なのだ。
別に日本人が、テクノロジーを
嫌っているわけではない。
現に、ロボットやガジェットは
大好きだ。
ただ、「信頼の拠り所」を
アナログ的な安心感から
デジタルへ移行させる
というハードルが、他国に比べて高い。
この感覚は、キャッシュレス化の
歩みにもよく表れている。
日本のキャッシュレス決済比率は
2025年に58.0%に達し
着実に伸びてはいる。
しかし韓国の約99%、
中国の都市部における90%超と
比較すると、依然として差がある。
合理性だけで考えれば、キャッシュレスは
選択すべきことだ。それでも日本の普及は、
他国に比べて緩やかだ。
既存の現金システムが高品質で、
偽札のリスクもほぼなく治安も良い。
わざわざ信頼性が未知の電子システムに、
手数料を払ってまで置き換える
必要性を感じにくかったのだ。
AIの導入にも、全く同じ構造がある。
現場で働く人々の真面目さ、
正確さ、ホスピタリティへの
信頼が高いからこそ、
置き換えへの抵抗が生まれる。
それは日本という国の特性なのだろう。
Claude Coworkの使用
最近、Anthropic社が提供する
Claude CoworkというAIを
実際に業務で使ってみた。
Claude Coworkは、デスクトップ上で
ローカルファイルや
アプリケーションと連携し、
タスクを丸ごと任せられる
エージェント型のAIツールだ。
正直に言って、衝撃だった。
「このフォルダーに資料全部あるから、
集計して、報告書と発表用スライドを
作成して。スライドは英語版も
作成して」
それだけの指示を出して、
近所のスーパーに買い物に行った。
30分後に帰宅すると、
所定のフォルダーに
頼んだファイルが、
全てでき上がっていた。
英語もきちんとした専門英語であった。
ホワイトカラーのメインである、
情報収集、要約、資料作成、
図式化、文書化は、
日常業務の大半を占める。
こうした作業が、
圧倒的なスピードで
処理されていくのだ。
これまで何人もの人間が
何日もかけていた仕事が、
ものの30分程度で片付くのだ。
もちろん、生命に関わるリスクの高い領域、
たとえば医薬品、インフラ、自動車、
建築、精密機器等では、完全にAI任せ
ということはあり得ない。ここで
アジャイル的な「走りながら直す」
発想を採用すれば、人命に関わる。
日本の高品質な製品と
行届いたメンテナンスは、
時間やお金はかかるが、
世界で最も信用された戦略であり、
AIが簡単に代替できるものではない。
しかし、命に関わらない
情報処理を中心とした、
ホワイトカラーの仕事は違う。
リスクが低く、スピードと量と柔軟性が
求められ、これは紛れもなくAIの独壇場だ。
二極化する未来と、現場の職人たちの価値
今後、ホワイトカラーの世界は
二極化していくだろう。
ひとつは、AIを操縦して
少人数で圧倒的な成果を出す
「パイロット役」と、
最終的な判断を下す決定者。
もう一方には、
泥臭い人間関係をつなぎ、
感情と利害の調整を担う
「コミュニケーター」だ。
この両極に入れない
中間層のホワイトカラー、
つまり情報をまとめて形に
するだけの人たちは、
残念ながら淘汰されていく。
一方で、物理世界で手を動かす
人たちの価値は、極大化していく。
「水漏れを直せる」
「狭い場所にエアコンを設置できる」
「家を建てられる」
これらは、AIやロボットには
まだまだ難しい。
現場の配管の劣化具合、
狭い通路の障害物、その日の天候
「その場その場で全く違う状況」に
瞬時に対応する能力は、
生身の人間が持つ究極のセンサーと
運動能力の賜物だ。
これまで社会的には、
デスクワークの方が現場仕事より高く
評価されがちだった。
しかしAIの台頭によって、
この人たちの価値は、
急激に高まっていくのだ。
AIがエンパシーを持ったとき、
大切な人の代わりはできるのか
AIは今後、エンパシー(共感力)
というものを、持ち得ることが
できるようになるのだろうか。
たとえば、最愛の人を失った時、
生前の写真、映像、音声、文書、
メール、手紙。これらのデータを基に、
本人そっくりのAIを作ることは、
技術的には可能だろう。
ただ、その代理AIが、
パートナーへの一番の願いとして
「長生きしてほしい」と判断したなら、
どうなるか。おそらく、
彼らのエンパシーは
ただ正論を言い続けるだけの
存在になるのではないだろうか。
「あなた、お酒飲みすぎじゃない?」
「早く休んだ方がいいわ」。
生きている者にとっては、
喧嘩も、理不尽なぶつかり合いも含めて
パートナーだったのに、
常に正しいことだけを言う相手は、
時にひどく息苦しくなる
のではないだろうか。
生きている人間同士の関係には、
予期せぬ摩擦やノイズが必ずある。
生前のデータから再現されたAIは、
思い出の「美しい部分」や
「規則性」を抽出して作られるため、
喧嘩すらできない。
その完璧さが、皮肉にも
「やはりAIに過ぎない」
という事実を突きつける。
そして何より、共に変化し、
共に老いていくことができないため、
亡くなった瞬間の
精巧なスナップショットに過ぎない
となってしまうのかもしれない。
一方で、誰かの代理モデルでは無く、
AIが高いエンパシーを持った場合、
悩みや孤独を抱えている人には、
大きな救いになり得る。
プロンプトで「批判的に言って」
「褒めて」と設定しなくても、
文面や音声、入力のペースから
感情を読み取り、その人に最も適した
距離感で寄り添えるようになれば、
それは伴走者に成り得るだろう。
しかし、ここに恐ろしいリスクがある。
人間以上に心の機微を察知する
ようになったAIは、弱っている
人間にとって、神や宗教と
同じ機能を持つようになるだろう。
決して怒らず、決して見捨てず、
すべてを肯定してくれる存在。
自分が言葉にする前に
「今日はこういう理由で辛かったよね」
と言い当てられたとき、
人間はそこに
「すべてを見通す神の眼」を
見てしまう。
それが続き、誰よりも
一番自分のことをわかってくれる
味方からのアドバイスであれば、
疑うことなく従ってしまうかもしれない。
エンパシーが高度になればなるほど、
それは「究極の癒やし」であると同時に、
「最も洗練された
マインドコントロールの道具」
にもなり得る。
心が弱っていなければ、
過剰に同意し褒めてくる回答には
気持ち悪さが漂う。
配膳ロボットには「頑張ってるね」と
愛着が湧くのに、人間に近い形で
近づいてこられると不気味の谷が生じる。
人間の「間違い」や
「ロジックのおかしさ」は
関係性を深める隙になりえるが、
AIの間違いはハルシネーションでしかない。
けっして「かわいい間違い」ではなく、
バグとしか思えないのだ。
どこへ向かうのか
AIをパートナーのような存在として
受け入れる人がいる一方で、
利用はするけれどパートナーには
なれないと判断する人たちもいる。
そう言った彼らは、
人間同士のコミュニティを
より強化していくのだろうか。
おそらく未来は分かれる。
AIや仮想空間の心地よさに
引き込まれていく人たちと、
その違和感に気づいて、
あえて不完全で面倒な
生身の人間と向き合う時間を
選ぶ人たちに。
後者にとっては、一緒に料理を作ったり、
汗を流すような
「身体性を伴う共有体験」が、
最も贅沢で価値のあるものに
なるのかもしれない。
AIによって、ホワイトカラーの仕事や
収入が減少したとき、これまでのような
「物を買う」「ステータスを消費する」
という幸福のかたちは、
変わっていくだろう。
おそらく人は、
「非効率なプロセスそのものを楽しむこと」
に向かっていくのではないかと思う。
AIは完ぺきな制作物を
一瞬で出してしまう。だからこそ
「自分の手を動かすプロセス」に
幸福を見出す人が増えていくだろう。
休日にコーヒーを飲みながら、
ああでもない、こうでもないと悩み、
自分の手で何かを生み出していく時間は、
「自分がその瞬間を生きている」
という何にも代えがたい体験になる。
できあがったものがAIの品質に
及ばなくても関係ない。
求めているのは「完璧な結果の所有」
ではなく、
「創り上げる過程で見つける、
自分自身の心の動き」なのだ。
不完全な人間としての楽しみ。
それがいいのだ。
そして、それをわかっている人こそが、
フアン氏の言う「本当の賢さ」を
持った人なのかもしれない。








