「希望のかなた」を観た。
シリアで親や婚約者をなくし命からがらフィンランドに逃れてきた主人公が難民として差別されながら、離れ離れになった妹を探すストーリー。
題材はかなり重い話なのだが、語り口のなかで結構ユーモアが入ってくる。殴り合いになった相手にすぐ仕事もらったり、急に寿司屋を始めて特大わさびをいれたり。
公式サイトにあった監督のインタビューいわく
「私がこの映画で目指したのは、難民のことを哀れな犠牲者か、さもなければ社会に侵入しては仕事や妻や家や車をかすめ取る、ずうずうしい経済移民だと決めつけるヨーロッパの風潮を打ち砕くことです。
ヨーロッパでは歴史的に、ステレオタイプな偏見が広まると、そこには不穏な共鳴が生まれます。臆せずに言えば『希望のかなた』はある意味で、観客の感情を操り、彼らの意見や見解を疑いもなく感化しようとするいわゆる傾向映画(9※)です。
そんな企みはたいてい失敗に終わるので、その後に残るものがユーモアに彩られた、正直で少しばかりメランコリックな物語であることを願います。一方でこの映画は、今この世界のどこかで生きている人々の現実を描いているのです。」
とある。
スピーチで自分の話に興味を持ってもらうためにユーモアを交えて話す、というのと同じように、映画においても重要な自分のメッセージを伝えるためにあえて重いテーマの中でもユーモアを交えることは有効だろう。
「ユーモア交えてたら重いテーマが軽くうけとめられちゃうんじゃないの?」
という疑問も浮かんできたが、この作品においては、しっかり伝えなければならない難民の現状に関しては真面目に、その他の登場人物の日常描写のところでユーモアをまじえる、といういいバランスになっていたように思う。
逆にユーモアのある日常があるからこそ、主人公を襲う現実の厳しさがより際立つ、という面もある気がする。
ユーモアや笑いの役割に関してはもっと深ぼってまた考えたい。