2024年02月09日20:38

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ザウルスの法則

知的障害者ではなく、伝達困難者? 言葉の泉が噴き出した!

ザウルスの法則さんのサイトより
https://blog.goo.ne.jp/zaurus13/e/606dac5374186dcbcb651e42003a4b8d
<転載開始>

知的障害者ではなく、伝達困難者? 言葉の泉が噴き出した!

 

 

 

言うまでもなく、知性は人間以外にも見られる。イルカや象やチンパンジーやミツバチにも、知性は認められ、同種族の個体間コミュニケーションが存在する。彼らは自分達の知的活動において何らかの信号を使っていると考えられる。人間の場合、その知性は言語に大きく依存している。言語によらない部分もあるかもしれないが、ほとんどが言語によってカバーされていると思われる。

さて、普通に話すことがない重度の知的障害者が、実は健常者とほとんど変わらないような言語世界を持っていることが近年明らかになりつつある。日本では主に國學院大學の柴田保之教授の10数年に及ぶ重度知的障害者たちとの関わりの実践が注目に値する。

柴田氏は彼らとの根気強い関わりを通して、今まで干からびた荒野と思われていた重度知的障害者の地平に井戸を深く掘ると彼らの知性の泉が滾々と湧き出て来ることをその著書に記録している。

 

 

柴田氏が掘り当てた温かい血の通った言葉の泉は、最初はチョロチョロなのだが、やがてとどめようもなく噴き出すようになってくる。その詳細については、同氏の著書 「みんな言葉を持っていた」(2012)をぜひご覧いただきたい。

 

 

 

 

 

 

さて、実はわたしは5年前に、柴田氏が開発した「ひつだん」という方法で知的障害者が通訳を介してさまざまなメッセージを発信するのを目の当たりにして衝撃を受けたことがある。障害児教育に携わる友人に誘われて見学に行ったときのことだった。

上左: 介助者(通訳)が知的障害児からのメッセージを「指談」で「受信」して、それを読み上げて書記に書き取らせているところ。上右の書面は書記が書き取ったもの。

下: 介助者が障害児の右手を両手で包むように持って、彼の指がごくわずかな動きでひらがなを書いているのを感じ取りながらメッセージを 「受信」 している。

 

その時以来、重度の知的障害者に対する見方がまったく変わってしまった。それまではただの 「アーウーの世界の住人」 と見ていたのだが、5年前のあの日の目撃以来、見方が根底からひっくり返ってしまったのだ。

 

そうした経験を踏まえて、重度知的障害者と彼らの言葉について考察したことを以下にまとめてみた。

 

 

 

まず一般論として、言語活動の基本は、メッセージの言語化(アウトプット) と 解読(インプット) である。解読の対象は他者からのメッセージもしくは自分のメッセージである。この自分のメッセージとのやりとりが、まさに「思考」のプロセスに他ならない。ザウルス的定義によれば、「思考とは自分の一人会議である」。

言語化したメッセージを他者に送るには、伝達のプロセスが必要である。健常者の場合、送り手としてのアウトプットにおいては、メッセージ作成(言語発信)と 発話  がほとんど重なって流れ出す。受け手としてのインプットの場合も、聴き取り と メッセージ解読(言語受信) はまるで同一のプロセスであるかのように感じられる。言語コミュニケーションのモデルとしては、電話でのやりとり が健常者にとっていちばんわかりやすい直観的イメージである。電話という伝達手段を介してメッセージのやりとりがなされるという図式である。

 

しかし、重度知的障害者にとっての言語コミュニケーションのモデルは、電話モデル からはほど遠い。彼らにとっては、電子メールのやりとり のほうがモデルとしては理にかなっている。メッセージを言語化することと、メッセージを送信することとが別のことであることが明瞭に区別できるからだ。実はこちらの方こそが人間の言語活動の原理をよく表していると言える。電話モデルはあまりにも単純化され、圧縮されていて、むしろ真実を見えなくさせてしまう困ったモデルなのだ。

 

さて、実際の電子メールだが、あなたの場合、自分が作成したメッセージがすべて送信済みというわけではないだろう。未送信のまま「下書き」のトレイに入っているメッセージもあるのではなかろうか?実は、重度知的障害者の場合、下書きトレイは未送信のメールで溢れかえっているのだ。どういうことだ?彼らにとっては、送信じたいが非常に困難な作業なので、未送信のメッセージが頭の中に充満しているのだ。

重度知的障害者の彼らはふだん健常者と普通に言葉を交わすことはないし、保護者も介護者の側も、相手に言語能力があるとは思ってもみないので、滅多に話しかけることはない。一般的に 「アーウーの世界の住人」 は言葉を持っておらず、言葉がわからない人々と思われているのだ。実際、このわたしも長いことそう思っていた。

 

しかし、上述の柴田氏は、重度知的障害者の不毛な荒野で井戸を掘っていたら、下書きトレイという地下の水脈に達して、重度知的障害者の言葉の温泉が噴き出してきたということなのである。

 

 

 

わたしが提示する、言語活動の電子メールモデル によれば、メッセージの作成(言語化) と メッセージの送信 は別の作業工程である。

健常者はどちらの作業も苦も無くこなす。しかも、音声の場合はほぼ同時にやってのける。しかし、重度知的障害者の場合、メッセージの作成はできても、コントロールされた発声や文字を書くためのコントロールされた手の動きといった送信作業が非常に困難なため、メッセージの相手への送達が容易に成立しない。そのため、ふだん表面的には口が利けないように見えるほとんどの知的障害者は、大抵はじめからすでに諦めている。言葉はほとんどわかっているのに、自分からの伝達手段がないので、生まれた時からずっと 「言葉の無人島」 に暮らしているようなものなのだ。

 

障害者の施設などで重度の障害者たちが同じ部屋にいても、全員がそれぞれ自分一人だけの言葉の無人島に暮らしていることになる。何ともむごいことだが、言葉のやりとりができないというつらさ、苦しさを、障害者同士ですらたがいに言葉で共有することもほとんどできないのが彼らの置かれている境遇だ。

 

しかし、健常者と重度知的障害者との間の言語コミュニケーションにおけるこの 非対称性 が健常者には、なかなか理解できない。言葉というものは相互的であり、双方向的なものであるという抜きがたい 対称性の先入観 からすると 「アーウーの世界の住人」 には言葉は存在しないことになってしまうのだ。そして、「可哀想だけど、知性に障害があるんだから仕方がない」 ということになる。重度知的障害者の側からすると、この非対称性が日常的に自分を取り囲む、聳え立つ壁になっているのだ。

 

 

しかし、介助者による「ひつだん」、「指談」、「ワープロ」、「50音順ボード」といった補助的な方法やデバイスを使ったコミュニケーション支援によって、知的障害者たちのメッセージを汲み上げる実践が少しずつ広がっている。彼らは、実際は実に多弁であり能弁なのだが、伝達能力の不足のために日々不条理にも沈黙を強いられているのだ。

 

 

「知的障害者」 という言葉じたいに多少問題があるかもしれない。この言葉からすれば、知性に障害があるのだろうと一般大衆は当然思ってしまう。実際、この言葉を作った人はそう思っていたに違いない。違うだろうか?

実は、知的障害者たちは人間としての知性にはほとんど問題はなく、豊かな言語世界を持っているのだ。問題は伝達能力の不足であるが、この問題は技術的に解決できる。介助者(通訳)が障害者の言語発信を感知して、それを音声化、もしくは文字化するのは訓練によってかなりのスピードでできるようになる。パソコンを使った方法も今日いろいろ開発されている。

 

「知的障害」 ではなく、 「伝達困難」 ではないだろうか?

「知的障害者」 ではなく、 「伝達困難者」 ではないだろうか?

「知的障害者」 という言葉や概念が、彼らの 言語活動の解放 の 「障害」 になっている面があるかもしれない。「知性に障害があるのだから、言葉がわかるわけはない」と周りから思われて、いつまでも言葉の無人島にぽつんと取り残されることになる。

 

 

 

繰り返す:

わたしが提示する、言語活動の電子メールモデル によれば、メッセージの作成(言語化) と メッセージの送信 は別の作業工程である。

健常者はどちらの作業も苦も無くこなす。しかも、音声の場合はほぼ同時にやってのける。しかし、重度知的障害者の場合、メッセージの作成はできても、コントロールされた発声や文字を書くためのコントロールされた手の動きといった送信作業が非常に困難なため、相手へのメッセージの送達が容易に成立しない。そのため、ふだん表面的には口が利けないように見えるほとんどの知的障害者は、たいていはじめからすでに諦めている。言葉はほとんどわかっているのに、自分からの伝達手段がないので、生まれた時からずっと 「言葉の無人島」 に暮らしているようなものなのだ。