
「楽園を追われたアダムとイヴの気持ちが判るわ。」
どの映画も、あらゆる芸術も、人生も、全ては「アイデンティティ」を探す壮大な旅が根底にある。
本作は原作が無く、ゼロから誕生した「完全オリジナル」の劇場公開長編作で、企画書が出されてから完成するまでに「5年」もの歳月を必要とした。
CG・VFXスタジオ「グラフィニカ」が手がけた、セルアニメのように見える最先端の映像スタイルなど、新たな3DCG表現のアニメーションをクリエイトするために最高峰の技術を集めたエポックな作品として世界中の関心を集めた。
「人類の可能性とは」「生きている自由とは」「本当の楽園とは」という3つのメッセージで「人の尊厳に関する物語」を展開する、日本のアニメ史だけではなく世界の映画史に残る究極のエンターテイメントだ。
ニューヨーク、ロサンゼルス、サンフランシスコ、ワシントンDC、サンディエゴなど、全米15箇所のアート系シアターで限定公開された時にはチケットがSOLD OUTになる程で、上映後の劇場内は拍手と歓声で埋め尽くされた。
「独自進化で知性を勝ち取ったAIなんて、ディーヴァの法律で裁ける相手じゃない。」
西暦2400年、肉体を捨てた人類の多くは「ナノハザード」により廃墟と化した地上から去り、データとなって約束された安全が保証される人類安住の地「電脳世界・ディーヴァ」で暮らすようになっていた。
そんな中「フロンティア・セッター」と名乗る地上世界からのハッキングによりディーヴァが異変に晒される。
推定30~40歳並の豊富な経験と知識を持ち、精神的実年齢・20代半ばの「アンジェラ」はディーヴァ保安局に所属するシステム保安要員の三等官。
彼女はハッキングの狙いを突き止めるべく「生身の体=マテリアルボディ」を身にまとい、16歳の肉体で荒廃した地上世界へと降り立つ。
サポートのため徴用された地上調査員「ディンゴ」と合流した直後、彼に襲いかかった「サンドウォーム」の群れを、アンジェラは「アダムとイヴの林檎」を連想させる形状の機動外骨格「スーツ・アーハン」を起動させ駆逐する。
各分野の有能な人材が全てディーヴァに移り住んだため文化レベルが衰退し、今や荒廃した地上のどこかに潜んでいるはずのフロンティア・セッターを探すため、アンジェラとディンゴの「世界の謎に迫る旅」が始まる。
「もうお前は人間、で良いんじゃないか?」
「官僚とアウトロー」によるバディ・ムービー感は、『チーム・バチスタの栄光』に代表される「田口・白鳥シリーズ」の神経内科医の田口と役人の白鳥という、相反する二人を連想させ興味深い。
主要キャラクターを演じる、釘宮理恵、三木眞一郎、神谷浩史の素晴らしいトリオも含め、東映アニメーション、板野サーカス、『鋼の錬金術師』『機動戦士ガンダム00』の 水島精二監督、『魔法少女まどか☆マギカ』『PSYCHO-PASS・サイコパス』『翠星のガルガンティア』の虚淵玄の脚本、キャラクター・メカデザインを務める齋藤将嗣、『青の6号』『戦闘妖精雪風』などで定評があったゴンゾのデジタル部門の流れを組むスタジオのグラフィニカ、主題歌「EONIAN -イオニアン-」を歌うELISA connect EFP・・・、それら多くの意外なコラボレーションが奇跡の化学反応を起こし、全編に「カタルシス」の連続誘爆を生んでいる。
セルタッチの完全フル3DCGアニメで、アンジェラの4カット以外は絵コンテ以降のレイアウトも含め一切手描きの絵は使われておらず、モーションキャプチャーも使用されていない。
「俺は誰かに値段をつけられ、裁かれながら生きていくなんてまっぴらだ。奴隷になってまで楽園で暮らしたいとは思わない。」
データという実体のない人類の遥か先の「ネクスト・レベル」な存在であるアンジェラは、自分の努力だけで出世してきたという自尊心を持ち、その自信を武器に数々の任務を果たしてきた。
だが実は、全て何かしらのバックボーンに頼って、何かに支えられ、何かに依存しているからこそ、ここまでの地位へ来れたのだ。
その事に気付かせてくれるのは「生身の人間」であるディンゴである。
彼は、人間・データ・機械・人口知能などの「ジャンル」「カテゴリー」など気にもしていない様子で、顔色一つ変えずに誰にでも何にでも等しく堂々と接し、しかも過酷な世界で基本たった一人でサバイバルしている。
彼こそが真に「自分の努力」だけで生きている存在なのだ。
データという存在としてバーチャルな世界にいるだけでは絶対に気づけないこと、判らないこと、それがリアル・ワールドに沢山あるという事実にアンジェラは心底驚かされ、魅了される。
「喜怒哀楽」「懐かしむ」「歌う」「笑わせる」・・・などの素晴らしい感情と同時に、「体重」「病気」「怪我」「空腹」「老化」「寿命」・・・などを背負った非常に効率の悪い物体である「人間」という存在は、アンジェラの目には謎だらけで神秘的にも映る。
「頑張らなかったことは無いわよ、いつだって・・・。」
ナノハザード後の地球を見限った人類が建造した施設「ディーヴァ」は一種のスペースコロニーで、地球と月の間のL(ラグランジュ)1に存在している。
人類の98%が実体のない情報生命体・電脳パーソナリティとなって住む「仮想空間」を公的・私的合わせて無数に内包するという、一見「楽園」と思える理想の世界だが、実は究極の実力主義社会で幅広い格差が存在する。
市民は原則として傷病はおろか老化や死とも無縁であるが、増える一方の人口に対して演算リソースは有限で、有能なパーソナリティは優先的にメモリが得られる反面、逆に向上心がないパーソナリティはメモリを削減され、最悪の場合はアーカイブされ凍結処分を受ける。
下級市民はメモリ不足から身体が粗末なポリゴンで構成されており、更に低層の者はドット絵のような姿に加えて思考能力も低下している。
そのため、アンジェラをはじめとするエージェント達は「キャリア志向」でメモリを得るべく任務に躍起になり、地上のディンゴから「管理という名の魂の牢獄」と揶揄されている。
その実体が明らかになるにつれて、どちらが「楽園」なのかという感覚に陥り、あらゆる先入観が揺らぎ「善と悪」が判らなくなる。
表裏一体ではあるが「ユートピア」がいつの間にか「ディストピア」に変わっているという、現代社会における「国」や「企業」にも通じる皮肉な構図。
その中で「人の在り方について」まで匂わす奥深さが本作のスピリットにはある。
「仁義、ってやつだ。」
「善悪」を知る事ができる様になる「知恵の実=林檎」を食べて楽園を追放されたアダムとイヴの様に、いろいろな事を経験していくうちに知識も感情も学んでいく二人=「データ化された全能の存在」と「自ら自我を持つことが出来た人工知能」、どちらにも人間らしい「感情」はあるが、本当に「人間らしい」のはどちらなのか。
リアルタイムで刻々とアップデートされるそんな二人の「意識の変化」にも目が離せない。
このように本作には多くの事を教えられ、多くの事を考えさせられる。
我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか・・・。
そして、自分にとっての「楽園」とは何なのか・・・。
やはり人生とは「アイデンティティ」を探す壮大な旅路なのだ。
「俺たちが失い、忘れたものを、誰よりも強く受け継いできたのがあんたなんだ。だから胸を張って行ってこい。いずれ旅先で出会ったやつには、堂々と名乗ってやりなよ。地球人類の末裔だってな。」