「戦おう、ここが俺たちの世界だ。俺たちはこの世界で生きていかなければならないのだから。」
高校時代は人生の中でも異次元の三年間。
一番悩める三年間であり、一番輝ける三年間でもある。
人によっては天国にも地獄にもなる三年間。
大人からは全く見えない校舎の中では、生徒だけの《ヒエラルキー=階層社会》が形成されている。
スポーツや勉強が得意で異性にモテるリア充はヒエラルキーの頂点に、恋人のいる帰宅部、部活に熱中している者、異性と交流したいのに無縁の最底辺層・・・というピラミッドが存在する。
この濃密な三年間で最も重要なのは、モテるかモテないか。
この《薄っぺらい価値観》が最も重要視され、しかも人間性まで決められてしまう。
肉食系がピラミッドの頂点に立ち、大多数の草食系底辺層が捕食されるのを恐れながら三年間を生き延びる。
ある意味、社会よりも弱肉強食かもしれない。
上層部であるリア充たちと、中・底辺層である部活組&ヲタク組との対比が凄まじく痛烈で、だからこそ《薄っぺらなリア充》の揺るぎないはずの栄光の日々が崩れだした時、逆に底辺層の充実した生き様が浮き彫りになる。
しかしリア充たちは気付かない・・・永遠に。
《高校=世界の中心》としか思えない現役高校生が今作を観ても、作者の真意を完全には理解できないだろう。
そして本作を鑑賞する時、自分がどのヒエラルキーに属していたかによって作品の印象は180度変わる。
桐島という学校一のスーパースターに何かが起こり、「部活をやめる」という噂を聞いた瞬間から彼を慕い崇拝する人々は翻弄され始める。
彼らにとっては「桐島、部活やめるってよ」という情報は、CIAにとっての「オバマ、大統領やめるってよ」レベルの情報だ。
高校時代を振り返りながら、客観的に今作を観てる人からすれば《高校=社会の縮図》っぷりがリアルで面白い。
朝井リョウが早稲田大学在学中に発表したデビュー作の映画化である本作は、非常に巧みに《高校の全て》を切り取っている。
皮肉なタイトルにもそのセンスは表れているが、一つの場面をあらゆる登場人物の視点で何度も繰り返す今作の、特に序盤の《金曜日の乱れ打ち》はガス・ヴァン・サント監督がコロンバイン高校銃乱射事件をテーマにした『エレファント』を彷彿とさせ緊張感あふれる。
そして、今作で一箇所だけ自分が脚本をリライトできるなら・・・中盤での男女の会話→男「タランティーノ作品で何が好き?」 女「人がいっぱい死ぬやつ」 男「だいたい全部そうだね」・・・ 映画部ならこの最後の返しは「じゃあジャッキー・ブラウンじゃないのは確かだね」というセリフがベストかもしれない。
高校時代は本当に特殊で色んな意味のある三年間。
人それぞれの日々がある。
十人十色の日々。
過ぎた高校時代は帰ってこない。
だからこそ誰にとっても尊い。
野球部の幽霊部員になって、心にポッカリ穴が空いてしまった「彼」にとっても・・・。
「俺たちはまだ十七歳で、これからなんでもやりたいことができる、希望も夢もなんでも持っている、なんて言われるけれど本当は違う。これから何でも手に入れられる可能性のある手のひらがあるってだけで、今は空っぽなんだ。」
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