幹部になったからといって、その人の信心も完璧になったとはいえない。役職は一方便ともいえる。信心は一生涯のものである。新しい時代に即応した幹部として、常に成長していくためには、なんといっても、みずから勉強し、毎日の題目を人より余計唱えてゆくことである。

Q 師との原点を築くには?
A 池田先生の指針を学び、広布に戦おう

 

 信心の素朴な疑問に答える「教学TALK」。今回のテーマは「師弟」。男子部大学校の定例会後、竹田ニュー・リーダーが「師弟の精神」を巡って、新井男子部本部長に質問します。

 

【登場人物】
 新井男子部本部長 学会3世の37歳。20代半ばまで学会活動をしていなかったらしい。
 竹田ニュー・リーダー 男子部大学校生の22歳。仏法対話に挑戦している。

 

 

 竹田ニュー・リーダー 男子部の先輩から「師弟の精神を学ぼう」と言われたのですが、僕は池田先生とお会いしたことがないから、師弟と言われても、正直、ピンとこないんです……。

 新井男子部本部長 実は僕も、先生とお会いしたことはないんだ。発心して以来、“師弟って何だろう”って、ずっと悩んできたよ。

 竹田 新井本部長は、どのように師弟の精神を深めてきたのですか。

 新井 先生は小説『新・人間革命』第9巻「新時代」の章に、こうつづられている。「創価の団結とは、師という中心軸のもとに、広宣流布という至上の目的のために、ともに生涯をかける、“無私の勇者”の結合である」と。そのことを、男子部の先輩たちは自らの姿を通して教えてくれたんだ。“先生は折伏の師匠だ。折伏に挑戦すれば、先生のすごさもきっと分かるよ”と。僕も、師弟の原点をつかみたくて、折伏に全力で挑んだよ。

 竹田 それで、どうなったんですか。

 新井 友人になかなか思いが伝わらず、悩むたびに先生の書籍を開いた。その中で、先生も若い頃に折伏で苦労していたことを知ったんだ。その時、遠い存在だと思っていた先生が、急に身近に感じられてね。先生も、戸田先生という師匠を求め抜き、折伏をやり抜いて、勝利の人生を開かれた。それなら「自分も!」って、決意したんだ。

 竹田 僕にも、師との原点を築けますか?

 新井 もちろん! 以前、SGIメンバーと交流した際、海外の同志の求道心に感動したよ。先生と一度もお会いしたことがないどころか、初来日という方も少なくなかった。でも、皆が「センセイに勝利を報告したい」「センセイなら、どうされるか」と口々に広布への決意を語っていた姿を見て、こう強く思ったんだ――師弟は物理的な距離ではない。師を求める心こそが、大事なんだ――って。

 竹田 具体的にどう実践をしていけばいいですか。 

 新井 友人の幸せを祈り、仏法対話に挑戦し続けることさ。そして、先生が示される指針を、自分への指針と受け止めていけば、先生と心で語り合うことができる。御書には「師弟相違せばなに事も成べからず」(900ページ)とある。師を求め、師に誓い、自分自身の限界を突破しようと行動する中に、師弟の道があると、僕は思う。

 竹田 まさに今、男子部大学校の記念期間、「ブレイク・リミット(限界突破)11・18」を進んでいますが、僕にとっての限界突破が何なのか、分かった気がします。今よりもっと対話に挑戦します。先生のことを、もっと知りたいですから!

●大阪市都島区 川〇正光(64歳) 
 私は長崎出身で、高校を卒業し、就職を機に大阪へ来ました。大阪を選んだ目的は、実は「脱創価学会」でした。両親は1958年(昭和33年)に入会。わが家は会場として、たくさんの人が出入りしていました。当時、学会への偏見が根強く、悪口を言われ、仲間はずれにされたことから、学会に対して、嫌な思いを抱いていました。
 大阪へ来て2年がたつ頃、惰性に流され、仕事や人間関係に悩み、落ち込んでいきました。そんな時、職場には、体も大きく、のっそのっそと大股で歩く先輩がいました。目つきも鋭いその人を見て、「この人は何か違うな」と思っていました。
 ある日、家に誘われて行ってみると、なんと仏壇が。学会員だと分かり、心の中で、「しまった!」と絶叫しました。
 集いに誘われるたび、「絶対に入らんぞ!」と決意も固く抵抗しましたが、今の自分と学会の方を比べて「完敗」を認め、1年後、20歳で入会しました。

 

●東京都葛飾区 迫〇克子(88歳) 
 入退院を繰り返す病弱な5歳の息子と、生後間もない娘の育児に追われる中、寝たきりの養母を引き取ることになりました。紙おむつも介護保険もない昭和30年代。近くに頼れる親戚もなく、夫が仕事の間、私の肩にかかる大きな負担に、このまま一人、どこか遠くに行ってしまいたい。そんな心境でした。
 しかし、小さな手で一生懸命、介護を手伝い、娘の面倒を見てくれる、けなげな息子の姿に、「なんとか丈夫に育てなくては」と、わらをもつかむ思いで、宗教を渡り歩きました。
 そんな時、養母のマッサージ師との縁で、創価学会を知りました。「必ず宿命を転換できる信心です」との確信あふれる言葉に入会を決めました。
 もうすぐ60年。病弱だった息子は今、広布の最前線で活躍し、地域にも貢献しています。娘も学会活動に励んでいます。これからも、“苦労した分だけ幸せになれる”と語りながら、生き抜いていきます。

 今、社会では
 人間力が求められている。
 仕事上の能力だけでなく、
 直面した難局に、いかに挑み、
 いかに価値を創造するかが、
 問われる。
 だからこそ、
 辛抱強いことが大切なのだ。
 歯を食いしばって、
 一歩また一歩、
 前へ踏み出すしかない。
 不屈の負けじ魂で勝ち進むのだ。
  
 働くとは「はた楽」
 つまり「はた(そば)の人を
 楽にすること」だと、
 聞いたことがある。
 いかなる職業であれ、
 自分の立場を通して人々に喜ばれ、
 社会に役立っていこうという
 真心と誇りがあってこそ美しい。
 その真心と誇りから生まれる
 熱心さこそ、
 重い仕事をも軽くし、
 楽しい心をもって働く力なのだ。
  
 仏法は「即社会」である。
 「即職場」「即地域」であり、
 「即家庭」となるのである。
 「即」とは、信心の一念だ。
 人生は、
 さまざまな困難の連続である。
 しかし、
 信心の上では決して負けない。
 一歩も退かない。
 この一念が、「即」人生の勝利、
 社会での勝利を開くのである。
  
 人間だれしも、
 自分自身から逃れられない。
 どんなに環境を変えてみても、
 自分自身が変わらなければ、
 何も変わらない。
 自分自身が幸福をつくるのだ。
 福運をつけていくのだ。
 人間革命しかない。
 わが胸中に
 希望の火を赤々と燃やしながら、
 人間革命の大道を朗らかに進もう!

 将棋の名人在位18期を誇った大山康晴氏。晩年はがんと闘いながら対局を続け、トップリーグのA級に在籍したまま69歳で死去した。A級以上連続44期の大記録は、今も破られていない

▼氏が、ある囲碁棋士のタイトル獲得を祝う会に出席した時のこと。あいさつに立ち、「もっともっと勝って……」とエールを送った。すると棋士本人が「そんなことを言っても、オレは負ける相手がいないじゃないか」と軽口をたたいた。氏はすかさず返した。「もし負ける相手がいなければ自分に勝て」。会場は拍手喝采だったという(石田和雄著『棋士という生き方』イースト新書Q)

▼一時は勝っても、そこで満足して努力を怠れば、成長は止まり、敗北の因をつくってしまう。最も手強い相手は自分自身――命懸けで将棋を指し続けた大山氏らしい逸話だ

▼“仏法は勝負”と説く。それは、人生が勝負の連続にほかならないからだ。どんなに勝っても慢心を起こさず、負けても卑屈にならず、うまずたゆまず向上への努力を続ける。そこに、確固たる自己を築く道がある

▼池田先生は「自分に勝つことが、すべてに勝つことです」と。周りと比べるのではなく、“昨日の自分”を超えることこそ、偉大な勝利。きょうも新たな挑戦の一日を。

 

団結こそ学会永遠の黄金則
異体同心で勝利を開け!

 

御文

 総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり
 (御書1337ページ)

 

通解

 総じて日蓮の弟子檀那らが、自分と他人、彼と此という分け隔ての心をもたず、水と魚のように親密な思いを抱き、異体同心で南無妙法蓮華経と唱えていくことを生死一大事の血脈というのである。

 

背景と大意

 本抄は文永9年(1272年)2月11日に佐渡で認められ、最蓮房に与えられた御書とされる。
 もとは天台宗の学僧であった最蓮房から、当時の天台宗の中で奥義とされていた「生死一大事血脈」に関する質問があり、それに対する御返事が本抄である。
 「生死一大事」とは、生死を流転する私たちの生命にとって根本の大事、すなわち万人成仏の法を指す。「血脈」とは、親から子へ血筋が受け継がれるように、法が仏から衆生へ伝えられていくことを譬えている。つまり「生死一大事血脈」とは、仏から衆生に伝えられる根本的で重要な成仏の法を意味する。
 日蓮大聖人は本抄で、まず「生死一大事血脈」とは妙法蓮華経であることを明らかにされる。
 そして、衆生が生死一大事の血脈を受け継ぐには、①仏と法と私たち衆生の生命の三つに差別がないと信じて題目を唱え、②三世にわたって不退転の信心を貫き、③広宣流布を目指し、異体同心で南無妙法蓮華経と唱えるという、三つの信心の姿勢が大切であると教えられている。拝読御文は、3点目の仰せの中の一節である。

 

解説

 “釈尊の十大弟子”の一人・阿難がある日、釈尊に尋ねた。
 “善き友を持つことが、仏道修行の半分に相当するのですね”
 釈尊は答えた。
 “それは違う。善き友を持つことが、仏道修行の全てなのだ”
 善知識(善き仲間)と共に進むことは修行の「半ば」ではなく「全て」――釈尊と阿難の対話をつづった初期経典の一節だ。
 仏法では、善知識の集まりである「和合僧」を重視する。ゆえに、善知識の団結を乱すことは、仏法上の重罪となる五逆罪のうちの「破和合僧」であると説かれる。
 互いの差異を尊重し、それぞれの個性を最大限に輝かせながら、自己中心の心を乗り越え、広宣流布のために心を合わせていく。その「異体同心の信心」こそ成仏の要諦であることを示されているのが、拝読御文である。
 「自他彼此の心なく」とは、自分と他人、あれとこれとを分け隔て、差別する心を排していきなさいとの意味である。
 「水魚の思を成して」とは、水と魚のように、私たち同志が切っても切り離せない親密な関係であることを自覚していきなさいとの仰せである。互いに尊重し、補い合い、支え合っていくことが重要なのである。
 それぞれの見かけ、個性、特質、立場などが異なる「異体」の一人一人が「同心」、すなわち広宣流布という同じ志を持って南無妙法蓮華経と唱えていく中に、根本の大事である成仏の法の継承があると大聖人は結論されている。
 他の御書でも大聖人は、「異体同心なれば万事を成じ」(1463ページ)と仰せである。「異体同心」こそ広宣流布を目指す真実の師弟、すなわち仏法者の集いである「和合僧」にとって根本の実践指針であり、成仏の法の継承そのものなのである。
 池田先生は、小説『新・人間革命』第30巻〈上〉「雌伏」の章で、拝読御文を通して、次のようにつづられている。
 「何があろうが、“広宣流布のために心を合わせ、団結していこう”という一念で、異体同心の信心で進むことこそが私たちの鉄則です。いや、学会の永遠の“黄金則”です」と。
 創価学会はこの“黄金則”である「異体同心の団結」で、全てに勝利してきた。
 そして今や、太陽の仏法は192カ国・地域に広がり、仏法史上に燦然と輝く壮挙を成し遂げ、学会は世界宗教へと飛翔した。世界の同志と共に目指してきた本年の「11・18」は、「創価勝利の年」の明年に向けた出発でもある。私たちは今一度、この常勝の黄金則を心肝に染め、広布誓願を新たに前進してまいりたい。

 

 信心とは自発能動だ。
 自らが主体者となって
 活動に励んでこそ
 歓喜も大きくなる。
 行学二道の挑戦を共に!

●福岡県飯塚市 肘〇典子(58歳) 
 看護師として就職して間もない時から、人間関係で悩んでいました。その頃、病棟には、3歳年上の白血病の患者さんが入院していました。ある日、その方が、「あなたは悩みはないの?」と。それから仏法の話をしてくれるようになりました。
 当時、白血病といえば、入退院を繰り返し、治療のかいなく亡くなるという不治の病。死の宣告を受けたに等しい人が、なぜこんなに明るく、人の悩みに同苦できるのか、分かりませんでした。後にも先にも、そんな患者さんと会ったことはありません。彼女は「白血病になって良かった。だからこそ、生きる喜びを知れた。学会員であることに誇りを持っている」と。私は彼女を信頼し、入会しました。
 4カ月後、彼女は生涯を閉じました。もっともっと、いろいろなことを語り合いたかったです。でも、25歳という短い生涯でしたが、堂々と勝利した人生であったと確信しています。彼女への感謝は尽きません。

 

●北海道北広島市 筒〇幸〇郎(67歳) 
 4年前、妻が先に、入会を果たしました。6月の教学部任用試験(仏法入門)には、無謀な挑戦と思いつつ、軽い気持ちで、夫婦で挑みました。
 すると、教学を学び、仏法に深い意味があることに気付きました。そして、私たちの受験のため、真剣に取り組んでくださる皆さんと共に学ぶ時間。不安を一掃する、夫婦そろっての歓喜の合格発表。私にとっては、まさに驚愕の出来事でした。
 そこからは自然の流れです。仏法をもっと知りたくなり、自分の意思で、本年7月16日、日蓮大聖人が「立正安国論」を提出された日に、入会しました。この日は海の日でもあり、たくさんの同志に“航海の門出”を祝っていただき、感無量でした。
 ある先輩は、「これからが勝負。お互い、勝利に向かって頑張りましょう」と温かい激励の言葉を掛けてくれました。
 初心の決意をしっかりと胸に刻み、夫婦二人三脚で歩んでいきます。

 舞台「リア王」に臨む日々を、主演の山﨑努さんが克明に記録した『俳優のノート』(文春文庫)。演技に懸ける情熱や役作りの苦闘などが垣間見えて興味深い

▼例えば台本の読み込みについて。「作品全体を理解すること。そのためには、自分の役を中心に読まないこと」「他の役を理解しなければ自分の役も理解出来ない」

▼自分のせりふを覚えるだけでも大変な作業に違いない。だが、その“自分中心”の位置をいったん抜け出し、共演者の役柄をつかむ。そうして全体を俯瞰する中で、自分の役を捉え直し、表現を深めていくという

▼自分を理解するために、他者を理解する――現実の生活にも通じる示唆がある。自分の考えだけに固執していると、おのずと世界が狭くなり、時に自分の進むべき方向を見失う場合がある

▼対話の場においても、こちらの思いを伝えることは大切だが、まず相手の話をじっくりと聞きたい。その中で自身の視野は広がり、考えも深まっていく。人間は、人間の中で磨かれるのである

▼広布の舞台においては、全員が「主役」である。「一人」に励ましを送り、かけがえのない個性が発揮されれば、励ます側の人間性も豊かになっていく。「11・18」へ、自他共に輝く人間革命のドラマをつづろう。

末法弘通の功徳は無量

 

御文

 極楽百年の修行は穢土の一日の功徳に及ばず、正像二千年の弘通は末法の一時に劣るか
 (報恩抄、329ページ)

 

通解

 極楽浄土での百年の修行の功徳は、汚れたこの国土での一日の修行の功徳に及ばない。正法、像法2000年の弘通は、末法の一時の弘通に劣るのである。

 

同志への指針

 濁世の末法において妙法を弘めることは、難事中の難事である。その中で、地涌の使命を果たしゆく功徳が、どれほど大きいか。
 仏法上の苦労には一つも無駄はない。厳しい環境の中で祈り抜き、学会活動に挑戦していくことは、全て無量無辺の「心の財」となる。
 人間革命も、宿命転換も、「穢土の一日の功徳」によって勝ち開いていくのだ。