正しさと危うさ | しあわせになりたかったのに

しあわせになりたかったのに

すみませんでした。

いつからだろう。
日本にこれほど外敵がいて、
闘争心を煽られるようになったのは。

子供の頃には、
先の戦争についての反省が折々に語られ、
戦争の暗く恐ろしい経験が話され、
もう起こすべきではないと教わった。
大人たちは懸命に働き、
そこから立ち直った自負を持っていた。

景気に陰りがみえた頃、
自虐史観とか、
嫌韓とか、
そんな言葉があらわれて、
いつの間にか受け入れられ、
同調する声が増えていた。

昔は、余裕があったんだろうね。
面倒なことを言う存在に、
したてに出て、適当にお金を払って、
事態を収めるだけの余裕がさ。
今は、対外的な衝突を適当にあしらうこともできなければ、
身内の不満を解消することもできない。

歴史的に見ればさ、
貧困にはじまる人々の不平を、
外敵との対立に問題をすり替え、
やがて戦争に突入していった国は多いわけさ。
教科書をくれば、
その陰惨な結果はよく分かるのにさ。

いざ自分がその渦中で、
その扇動に飲み込まれているとさ。
その正しさに自ら乗っかって、
危うさを感じることもなく、
闘争へと進んでしまうものなんだね。

正しさがあるから、
この流れは止まらないんだろうけどさ。
同時にある危うさは、
こころの中にとどめておきたい。
そう思うよ。