どうも…ショーエイです。
島根県知事が聖火の中止を言い出したとか…
これ島根県人の論拠の無いパフォーマンスです。
結果出来ない事を言い出して押し通さずに、
県選出の国会議員に花を持たせる計画のもの。
まあ、失敗に終わった様ですが…
ただ県知事の味方をする必要もありません。
先ず、島根の現状で聖火の中止を訴えるだけの説得力はない。
ただ世論の流れに乗じて聖火中止を唱えれば、
島根と言う知名度を上げるパフォーマンスにも成るし、
県知事の名前もメディアに取り上げられる。
最終的に地元選出、竹下亘のみならず細田もいるわけで、
その影響力で黙りましたとすれば、
地元出身の議員の株が上がるという算段。
聖火リレー開催で他県から人が来るから危険だ
という主張でもするつもりなのか?
その前に47都道府県で開催されるので、
別に島根に態々行って見るだけの価値はありません。
錦織圭君が走るからというパフォーマンスなら、
彼を走者にしなければ要は足りる話です。
コロナの感染が入り込む心配という目的で、
聖火リレーを開催中止にするなら、
走者を他県から見に来る気に成らないレベルで調整して見なさい。
とは言え、オリンピックさえ中止に成れば、
何の問題も無い事なんですがね。
正直なところ、
島根県人に裏切られた経験があり、
個人的に島根県人は信用しません。
政治家を見ても保守の巣窟ともいうべき地域で、
日本の恥部を代表するようなところです。
日本も同じで島根県人全員がそうでは有りませんが、
人口も少ない分、社会的圧力が強く、
自己主張が許されない土地でもあります。
【田舎ほど大衆社会と民主主義を混乱している。】
田舎ほど情報に乏しいせいか…
情報社会で情報に乏しい?
そうなんです。
田舎ほど大衆意見が絶対で、
結果、議論も成立せずに
単なるうわさ話でも広がればそれが絶対に成りがちです。
如何にITが浸透してても、
自身の社会環境いわば生活している地域に合わせないと、
結局は嫌われ者に成ってしまうのが田舎という土地です。
そういう意味で田舎ほど迎合して活きて行くことが求められます。
そういう社会ゆえに
議論という情報を適正に精査する機能が失われるのです。
日本社会全体が基本この田舎気質に支配されている訳です。
若干都市部では改善が見られますが、
ネット上などでは田舎気質が蔓延していると言えます。
大衆の意見だから絶対。
そうですね…ハッキリ言って民主制では有りません。
世界全体の話ですが、
太古からの社会が、特に村単位の社会がそういう仕組みなのです。
村民の一人が
「あいつは魔女だ!!」
と言い出して村全体が魔女だと信じたら、
その人は魔女にされます。
大衆全体が魔女だと決めつけたから絶対で、
どんだけ違うと根拠を示しても魔女にされます。
民主制に於いてはこうしたマイノリティの保護という観点が加わり、
魔女とされる人の権利が社会的に保証されます。
民主制は社会に迎合しなくても、
個人が個人として活きて行くことが保証された制度です。
アメリカでマスクの着用に拒否反応を示す人は、
自分の権利=自己選択の権利が社会に奪われるという懸念が生じているのです。
社会の為と言うけれど、個人の権利を無視しては
民主制の崩壊を招くことに繋がるという議論も生じます。
社会のルールに従えという主張は、
政治学上寧ろ権力者に有利な主張なのです。
前述の通り村社会で、一人だけ異質な人間として扱われて平気ですか?
いわば権力者は仕事を与えない、首にするなどの
パワハラツールを使って社会大衆を従わせることが出来るのです。
皮肉な話、日本では日本弁護士会もこういうツールを用いてます。
死刑制度の賛否で、
日本弁護士会員は死刑制度反対を唱えなければならないという
圧力を用いてます。
さすがに弁護士なので
あからさまに規約にしてはいないと思いますが、
結局異論者=死刑制度賛成側の人は、
弁護士会の会員として他者から協力を拒否されることに成り、
法律上必要な情報にアクセスさせてもらえなくなるなどの
支障が出る様です。
法律上では協力に応じる応じないは個人的な見識で許されるため、
協力要請に従う従わないは自由なのですが、
無論、異端者に協力する人は
同じ圧力にさらされて苦境を強いられることに成ります。
正に村社会であり、魔女狩りのシステムです。
とても封建的ですね。
こういうシステムは民主的では有りません。
民主制とは天秤の様なもの…
バランスを取るのが難しい繊細な政治なのです。
日本の弁護士はバッジの天秤の意味を
もっとよく考えてほしいです。
いわば天秤に重しを乗せて絶妙なバランスを保つのは、
とても難しい。技術も頭脳も要求されるモノです。
逆に重しをバランス関係なく乗せるだけの作業は、
何も考える必要が無く、誰でも出来る間抜けな作業です。
天秤の重しが必ずしも人数と言う意味では有りませんが、
人数として考えてもマイノリティとの関係性で
天秤の支える支点を調整する事でバランスは取れます。
ただ大衆は自分達が有利に成ろうとして重しをドンドン嵩上げしてきます。
もう一方も重しを嵩上げしようとすると、
今度は支点をささえる天秤そのものが崩壊してしまいます。
まあ、支点をマイノリティ保護の為に手前にずらせばずらすほど、
天秤の水平棒が伸びきって、折れやすくなる様に、
政治でも重い方へ折れ曲がって行く訳です。
面白い話、天秤の原理と人間社会の原理は似ています。
もうこれでは壊れているも同然です。
この状態が無秩序な状態で、
結果、独立戦争やら革命戦争と成る訳です。
こうした事が起こらない様に天秤の強度を補強する意味で、
憲法や法律が設けられているのです。
それでもバランスが悪くなると一方の重しの方だけが下がり、
もう一方は浮いてしまいます。
社会的に浮くという表現と同じで、異端者に成る感じです。
そのバランスで問題無いとする政治は
太古からある社会と同じで、
権力者や周囲の主張に逆らっては成らない社会です。
ある意味封建社会。
寧ろ民主制を大事に考えるのなら、
浮く人が生じない様にバランスを取って、
様々な個人が個人として活きて行ける環境を目指すものです。
そしてそれこそ自由が保障された社会なのです。
前述の通り、
民主制を維持するというのはものすごく大変な技術が要り、
頭を使って考えなければいけない作業です。
一方、片方だけの比重を下げるのは、重しを乗せるだけ。
いわば権力や金を使って重しを嵩上げすれば良いだけの話で、
政治として何の思考力も必要ないものと言えます。
日本人が求める政治とは、
ただ重しを乗せるだけの政治ですか?
それともバランスを取って個人の自由が保証される政治ですか?
もっとよく考えて見て欲しいです。
議論という場は、この天秤のバランスを取る意味で大事な作業です。
いわば支点をどの位置に持って行くか、
議論する事で絶妙な位置を探る作業なのです。
日本人にこういう作業をしている感じが見られますか?
日本人の主張は常に重しを乗せ合うだけの話に聞こえませんか?
そんなものは民主制とは言わないです。
これ理解できないと、マッカーサーの言う通り、
日本人の民主理解度は12歳以下です。
【追伸】
島根県というか中国地方の教えに、
(全く論拠の無い事で)
人が理解できない事をやって困惑させることで、
人の注目を引いて考えさせろというものがあります。
一見、何か考えがあるのかと日本人は勝手に想像してしまいます。
ハッキリ言って、何の意味も無いので、
馬鹿にしてあげて下さい。
日本でしかこんなこと通用しません。
根拠はと聞くと、根拠が無いので、
聞き手に質問攻めして考えさせるという
情けの無い手法まで有ります。
中国地方の政治家にこの手が多いのも特徴的で、
特に島根は質が悪い。