高津医院長は民主制を勉強してから政治を語れ!! | ショーエイのアタックまんがーワン

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タッグチームLiberteenの漫画キャラクター・ショーエイが届ける、笑えるブログ・ショーエイの小言です。宜しくお願いします。

どうも…ショーエイです。

表現の自由に対する冒涜行為故に、

名指しで吊るします。

 

影響力が有る存在に成ったから、

いい加減な程度で世論を間違った方向へ扇動するんじゃない!!

高津クリニックの高津医院長、

この人は害悪です。

まあ、ここまで言うのは彼が大村知事を害悪と言うからです。

 

【別に天皇陛下の肖像画が焼かれる話を肯定する訳では無い】

頭の悪い人間は、その表現を出展する事を許したから、

そこで表現されたものを指示していると勘違いする。

そういう小学生レベルの話で、

民主制の何たるかを語る資格は無いと断言します。

 

憲法上表現の自由であり、幸福追求の尊重が謳われている故に、

民主的な見地から政治的に検閲するべきでは無いという話です。

 

民主的な見地でこの問題を捉えるのなら、

天皇陛下の肖像画が焼かれるのを見て、

国民一人一人がどう感じるかで、

その表現に犯罪的な善悪を付けるのではなく、

その表現を支持するかしないかの話で治めるべきなのです。

支持しない人が多ければ、

その表現の価値は認められないというだけの事です。

 

殆どの国民は天皇家に反感を持っていないのが現状で、

寧ろそういう表現に対しても寛容な姿勢で沈黙する

天皇家の民主的理解を示す態度に共感を抱く話です。

 

河村市長にしても、高津医院長にしても、

彼らが騒ぐことで

寧ろ天皇家の寛容な姿勢を冒涜しているとも感じます。

 

【憲法上ヘイト表現には成らない】

この昭和天皇を攻撃する様な表現が、

韓国や中国で行われたのなら、

それは日本に対するヘイトと考える話ですが、

日本国内での場合は、

寧ろ「知る権利」という意味で考える内容です。

まず、この様な表現が日本国内で支持されるはずは無いわけです。

それでもこうした表現をする人が国内に居ることを

日本人は知っておくべきで、

その上でその人たちが抱く昭和天皇に対する嫌悪の気持ちが

どこに繋がるかを考える機会とすべきです。

考えたくない人は考える必要も無いですが、

考える事で日本人として気遣いを持てる

寛容な国際人として表現することは出来るように成ると言えます。

 

国際人としてどういう日本人が魅力的か、

それぞれで考えて見て下さい。

 

また、こういう表現をした人が、在日の人であっても、

憲法上日本国内で守られた人たちで、

誰が、どういう人が表現したかを限定して批難する事は、

寧ろヘイト行為に当たります。

 

要するに日本国内で表現したものであるから、

日本人に何らかのメッセージを伝える表現であったと

理解するべきです。

別に彼らの表現を支持しなくても、

そういう表現を考える人が居るという事を知る話です。

 

【大村知事判断】

そういう表現をする人が日本に居るという事を知る意味で、

実際に公開する機会を与えて、

あいちトリエンナーレと言う場から

日本全体に参考として考えるものとしただけの話です。

こういう表現を公開しなければ

多くの日本人はそういう人の存在を知らないままだったわけで、

寧ろ知った事を好意的に考えるべきです。

その上でその表現を支持するしないは、

個々の感性に任せるべきで、

一方的な見識を押し付けるのは、

これ民主的では無く、寧ろ王政であり圧政の話に成ります。

 

【支持しない意見を述べるのも自由】

支持しない意見を述べるのは自由です。

ただ、その表現に不快を示すのは問題ないが、

表現をした人間を責めるのは間違いです。

その表現をした人にはそういう表現をしたいだけの

理由が有るのだから。

また、その表現で公開する事を認めた人を批難するのも

全く民主的では有りません。

上記に記した様に、

「憲法上検閲されるべきでない」

と判断した上でのものだから、

そこには何の犯罪性も有りません。

 

ただし、このブログでは、

不当な批難を与えて、

木村花さんのケースであった様に

社会的悪者に仕立て上げようとする行為は、

絶対に許せない意味で、

そういう行為に走った人間とは徹底的に戦います!!

 

【表現の自由の価値は個人の判断で】

表現に共感を得ないものは、

マジョリティとして評価を受けません。

 

天皇家に反感を抱く日本人はほぼ居ないのでは…

 

それ故に天皇家を冒涜する表現を見ても、

共感する人は少ないと考えるべきです。

現状は…

 

仮にこういう表現が共感を得る社会であった場合、

天皇家の有り方に問題が生じている事態と考えるべきで、

こういう機会でその現状を見極める意味でも、

知る権利の範疇と考えるべきです。

また天皇家に限らず、アメリカのトランプの様に

支持を得られない状態に対しては

真摯に受け止めて自ずから改善する意識を与える方が

健全な民主制と言えます。

様々な意味で、表現の自由は我々の国民主権を

権力者から守るツールであることを理解して欲しいです。

 

それらは個人個人の意見と見識が集約されて、

自然的な形でマジョリティが形成されるのが、

正常な民主制の状態である訳です。

 

一方的な意見で押さえ込んで、

偏った考え以外は社会から淘汰される状態では、

正常な民主制とは成らず、

情報を発信できる一部の抑圧で成り立つ、

権威制でしか無いと言っておきます。

 

ある意味、高津や河村みたいなのは、

日本人を馬鹿にしている。

いくら何でもああいう表現を知って、

日本人が天皇家に反感を抱くか?

否!!

 

寧ろああいう表現を知っても、

特に問題視しない天皇家の寛容さに

安心感を感じる話です。

 

逆にこれを期に騒ぐ連中は、

日本人がかれら小学生以下のレベルより低いと

考えている。

 

日本人が本当に小学生以下で無いのなら、

何が民主制上大切なのかを

改めて考え直してほしいです。

 

まあ、ネトウヨのせいで日本人をバカにすることは

多々あるこのブログですが、

本質的な日本人=有能な日本人が多数で有ること

信じたいです。

 

【知る権利の大切さ】

キリスト教徒がキリストの神聖なイメージを

汚されたく無いと考えるのは当然です。

しかし、史実の一遍として、

キリストは飲んだくれで、

娼婦をはべらかして

皮肉屋であったという表現が有ります。

これをキリストの神聖さを汚すいみで

不当な表現と弾圧してしまうと、

史実の一遍として残された表現は、

誰も知る事無い話に成ります。

 

寧ろ人間的なキリストを見る意味で

こうした表現も表現一角として見れる事で、

哲学者キリストというイメージも生まれてきます。

 

どれが真実で有るかは実際には知り得ません。

でも、様々な表現を受け入れる事で、

自分の実像を見極める機会に出来るのです。

 

キリスト教徒でなくでも、

哲学者キリストという人間として受け入れる事で、

そこに有る言葉を哲学として参考にする許容も生まれるのです。