ギッシング「ヘンリ・ライクロフトの私記」その7 | さかえの読書日記

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琴線に触れたことを残す備忘録です。

 「今日はもの憂い日だった。知りたいと思うものがいかに多く、学びうる見込みがいかに少ないか、ということを考えて悩まされたのだ。知識の範囲は今やおそろしくひろがってしまった。といっても、自然科学の研究分野はほとんど私には問題にならない。それは私には全然無意味なものか、さもなければ、ときとしてくだらない好奇心の対象となるくらいのものだからだ。こう考えてくると、知識の分野のかなり片がついたように見えるかもしれぬ。が、実際問題としては、まだ無限の分野が残っているのである。ただ私の好きな題目、つまり、自分の生涯の通じて多少でも研究にしたがったもの、私にとって趣味となった研究、のリストに目をふれただけで、私の知的な展望が真っ暗になるように思われてくるのである。

 古いノートにこんなリストを私は書きつけている。曰く『知りたいと思う題目、それも徹底的に知りたいと思うもの』。私は当時二十四歳であった。五十四歳の目をもって読んでみると、笑いだしたくなるようなことが書いてある。たとえば、こんな控え目な項目が書いてある。『宗教改革に至るまでの教会史』『ギリシア詩の全部』『中世ロマンスの世界』『レッシングよりハイネに至るドイツ文学』『ダンテ』!このような題目の一つだって、『知る、それも徹底的に知る』などということは将来とても及びもつかないことだろう。どれ一つとってもそうなのだ。それなのに、私は今も今とて、自分を次ぎ次ぎと新しい誘惑のはてしなき迷路に導く本を性懲りもなく買っている。私のエジプトとなんの関係があろうか。しかるに、私はフリンダーズ・ビートリやマスベロに有頂天になっているのだ。小アジアの古代地誌をひねくりまわす資格が私のどこをおせばでてくるというのであろうか。それなのに私はラムゼイ教授の驚嘆すべき本を買い、その多くのページを妙にうしろめたい気持ちにかられながら読みふけりさえした。うしろめたい、というわけは、ちょっと考えただけでもわかることだが、真剣な知的な努力の時代が過ぎ去った現在、こういう読書はすべて単なる知的遊戯にすぎないと思われるからである。」


 雰囲気はわかる。