塩野七生「ローマ人の物語14(キリストの勝利)」その5 | さかえの読書日記

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琴線に触れたことを残す備忘録です。

 「キリスト教が微々たる勢力でしかなかった一世紀半ばに、キリスト教をユダヤ人の民族宗教から世界宗教への道に進ませる人になる聖パウロが、すでに次のように説いている。」


「各人は皆、上に立つ者に従わねばならない。なぜなら、われわれの信ずる教えでは、神以外には何であろうと他に権威を認めないが、それゆえに現実の世界に存在する諸々の権威も、神の御指示があったからこそ権威になっているのである。だからそれに従うことは、結局はこれら現世の諸権威の上に君臨する、至高の神に従うことになるのである。」


「現実世界における、つまりは俗界における、統治ないし支配の権利を君主に与えるのが、『人間』ではなく『神』である、とする考え方の有効性に気づいたとは、驚嘆すべきコンスタンティヌスの政治感覚の冴えであった。権力の委託でも、また一転してその剥奪でも、それを決める権利は『可知』である人間にはなく、『不可知』である唯一神にあるとしたのだから。だからこれは、実際上ならば、何も意志表示をしない神が決めるということになる。となれば、その神の意を受ける資格を持つとされた誰かが、それを人間に伝達しなければならない。キリスト教では、真意は聖職者を通して伝えられることになっていた。それも、権威ある真意伝達のコースとなると、信者と日常的に接する司祭や孤独な環境で信仰を深める修道士より、教理を解釈し整理し統合する公会議に出席する権利をもつ、司教ということになる。つまり、世俗君主に統治の権利を与えるか否かの「真意」を人間に伝えるのは、キリスト教会の制度上では、誰よりも司教ということになるのだ。」


「ならば、司教たちを味方にしさえすれば「真意」も味方にできるということになる。そうとわかれば話は簡単だ。どうやれば司教たちを懐柔できるかに、問題は集約されるからであった。コンスタンティヌスが、そして父の意を継いだコンスタンティウスが、半世紀の間に行った、教会建設、聖職者資産と教会資産への非課税、司教区での司教への司法権委託、等々の優遇政策は、「真意」を味方につけることによって帝位世襲の正当性を獲得すること、が目的であったのでった。そして、決めるのは『人間』でなく『神』となれば、皇帝への反乱も皇帝殺害もなくなり、政局は安定すると踏んだのであろう。」


 背教者ユリアヌスを理解する前提となる理屈