仲正昌樹「マックス・ウェーバーを読む」その3 | さかえの読書日記

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琴線に触れたことを残す備忘録です。

 「自分が救われるかどうかは、神によって既に定められているのだから、それを確認しようと躍起になっても仕方がない。カルヴィニズムの信徒は、そこに拘るよりも、神の栄光のために実践しようとする。言い換えれば、神の意志が絶対であり、被造物である人間にはそれを左右することはできない以上、その意志に関して疑問を抱いて逡巡したりせず、むしろ積極的にその実現の道具になろうとする。神の栄光を現す道具であることに、自らの存在意義を見出そうとするということだ。もし自分が道具として、神の意志の実現に少しでも貢献しいることに確信をもつことができれば、それは間接的に、自らが(神の道具として)選ばれていることの証拠であるとみることもできる。要は、思い悩まずにとにかく実践することで、自分のやっていることに確信を持つよう、自分自身を仕向けるわけである。」


「そうした信仰観を持つカルヴァン派の信徒は、社会的に有意義な労働、隣人のためになる労働に従事しようとする。『労働』を通して、社会的価値が生み出されることが、神の栄光を現すことになるのである。人間の具体的な労働の成果が、神の栄光を現すというのは、世俗的な労働に積極的な価値を認めなかったカトリシズムとは対極的な考え方である。内面においては、神に全面的にゆだねる態度をとる一方で、神の栄光の現れとしての労働を重視するのが、カルヴィニズムの特徴である。各個人の神に対する信仰の強さを、労働に反映させる思考回路を備えているわけである。これは、『資本主義』を発展させるうえで有利な考え方である。」


 小室直樹「日本人のための憲法原論」で始めて予定説を知ったが、予定説と資本主義との関係に関する記述として理解した。