「人は自らの一歩を決める。だが、その一歩は本人の意思に反して、思いもよらぬ道に踏み出すことがある。自分では選択しているつもりでも、大いなる力によってあらかじめ決められていることもある。大局的に見れば選択肢はそれほど多くない。宣長が京都に留学したのは医者になるためのものだったが、それはまた国学者歌人として生きる道を選択する一歩でもあった。」
「さて京都留学中に、『百人一首改観抄』を人に借りて読んで、はじめて契沖という人の説を知り、その実のすぐれていることを知って、この人の著した書物、『古今余材抄』や『勢語臆断』などをはじめとして、その他も契沖の書物を次々に探して読んでいるうちに、総じて歌学の善い悪いの区別も次第に了解することができた。」
「在京中、漢学に医学、そして日本古典文学研究と、宣長の勉学の対象は多岐にわたっていた。そのために詠歌がおろそかになったかといえば、まったくそのようなことはなかった。むしろ忙しくなるにしたがって、ますます詠歌に励むようになったのである。宣長は友人への書簡の中で『私有自楽』(ひそかにみずから楽しむあり)という語で表現している。そしてその言葉通り、詠歌の習慣を崩すことはなかった。文字通り、寝食を忘れて詠歌に耽った。」
『二十代の宣長は、五年半にわたる京都留学の間に漢学修得と医学修業とのほかに重要な経験をした。師の景山を通して契沖学と出会い、日本古典文学に開眼したこと、有賀長川に入門して二条派歌学を体得したことである。前者はその後の文学研究の基盤となるものであり、後者はその後の和歌創作の基礎になるものであった。いずれも宣長にとってかけがえのない経験であったのであり、この京都での日々があったからこそ、高く飛翔することができたのである。」
若かりし日々の宣長