野口武彦「荻生徂徠」その4 | さかえの読書日記

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琴線に触れたことを残す備忘録です。

 「明治時代に徂徠はどう取り扱われていたか。大正、いや、昭和になっても終始変わらなかった冷遇の実態を解明して、徂徠問題の所在をあらためて再確認したのが、丸山眞男の「荻生徂徠の贈位問題」である。徂徠没後250年を記念してなされた講演に基づくこの論文は、近代日本が江戸時代の主要な学者に『ほとんど洩れなく』贈位しているのに、徂徠並びに徂徠派の学者はただ一人――長州の山形周南――だけを除いてことごとく贈位からはずされている事実を指摘し『しかもそれはたまたま係官の不注意によって、偶然にこぼれおちたというような性質のものではなくて、明らかに意図的な除外であった』ことに注意をうながしている。被贈位者のリストで目下のテーマに限定すると、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤の『国学四大人』は従三位、儒学畑では山崎闇斎、頼山陽がやはり従三位である。理由は両人ともに勤皇思想家とみなされたからであろう。近代天皇制政府の贈位のランク付けは、露骨なまでに単純であった」


「大儒学者の例を見ると、伊藤仁斎、熊沢蕃山、新井白石はひとしく正四位である。徂徠だけが無位であるのは確かにおかしい。丸山論文によれば、大正4年、大正天皇即位大典に際して大量贈位が行われたが、『この段階において、徂徠に贈位が今までなかったということが初めて「問題化」する』という。どういうかたちで「問題化」したかの経過の紹介はここでは省くが、とにかく徂徠冷遇の要因はこの学者の生前の言動に『朝廷を抑へ幕府を持上げ居れるのみならず、その文章中には将軍を指して皇上と称せるが如き事』にあったのである。徂徠伝説の一つに数えた『日本夷人物茂卿』という孔子像賛もこのときまた論点になった。一件は死後まで祟ったのである。」


 丸山眞男「近代日本の国家と思想」の中に収録されている。