「徂徠」その4 | さかえの読書日記

さかえの読書日記

琴線に触れたことを残す備忘録です。

「茅場町の茅は蘐とも書く。そこで、徂徠らは徂徠の家塾を唐めかして『蘐園(けんえん)』というようになった。」


「中華の言語を自由に操ることにかけては本邦随一と徂徠は自負しており、仁斎は未熟もいいところといっているのだが、吉川幸次郎氏によると『語学力、博学、当時の徂徠と伯仲しうるのは、39歳年上の伊藤仁斎と、その長男で4つ下の伊藤東涯』のみということで、そのことは実は徂徠も認めており、山形周南への手紙でも、『もしその次はと問われれば、まづ源蔵に指を屈す』と思わず本音をのべているほどだが、勢いあまって仁斎の語学力にまでケチをつける。以上が、『蘐園随筆』「巻一」の概要。「巻二」になると仁斎批判はもっと露骨になる。」


「私は仁斎の門人渡辺子個と仲のいい同僚だった。住んでいた長屋も近かった。だから、暇さえあれば行き来して、『論語』や『孟子』について語り合った。そんなとき子個がいった。『徂徠先生がおっしゃることはまことに仁斎先生に似ている。朱子の説と徂徠先生の説はまったく類似しない。先生はどこから、その考えを得られたのですか。』そんなことがあって、徂徠は、子個を通じ、誰が読んでも顔を赤らめる賛辞するぎる手紙を仁斎に送った。しかし、返事がこない。一年を垂としてしまった。手紙を百回送っても返事など寄越しはしない。そんな男なんだ。仁斎というやつは。仁斎から返事をもらえなかったことは徂徠にとってトラウマのようになっていった。


 徂徠、仁斎、東涯、白石そして宣長など、この時代の思想の概要について全体像を知りたい。