芳賀徹「漱石の中の絵」から | さかえの読書日記

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琴線に触れたことを残す備忘録です。

 「絵好きの人漱石が、明治33年から35年末まで英国留学の2年余りの間に、「絵所を栗焼く人に尋ねけり」と、ロンドン市内または郊外の美術館を実にまめに訪ね歩いたことはよく知られている。彼はヨーロッパの古典の名作または同時代美術の数え切れぬほどの作品を前にして、勤勉な苦学生からの息抜きの一刻を得るとともに、一挙に広大な美術史への視野を広め、さらに日本人漱石の独自の見識を養った。レオナルド・ダ・ヴィンチもボッティチェリもクロード・ロランも見た。ラファエロもベラスケスもグァルディもグールズも見た。ターナーやラファエル前派の画家たちもいうもでもなく、アール・ヌーヴォーやフランス印象派も大いに興味を寄せた。美術工藝の専門誌『ステューディオ』の定期購読者となったのみならず、画集ならびに美術史や美学の専門書のたぐいもたくさん買い込んでよく読んだ。」


「この集中的な美術体験が人間漱石の中の『絵画の領分』をどれほど押し広げ、豊穣にし、活気づけたかは測り知れない。それは帰国後の漱石の作家・評論家としての活動のいたるところに湧き出て、にじみ出ている。『吾輩は猫である』や『虞美人草』はさておいても、たとえば『草枕』は、ほとんどそのまま作家漱石による空想の東西美術館と呼んでいいような一篇ではなかろうか。非人情の画想を求めて旅する一画工の脳裡に、陶淵明や王維やシェリーの詩が浮かぶのは当然としても、同じように長沢蘆雪とジョン・エヴァレット・ミレイが、円山応挙とサルヴァトール・ローザが、大雅、蕪村とレッシングが、それぞれいくつかの連想のものに、あるいは対比のもとに、語られてゆく。その合間には伊藤若冲も北斎も白隠禅師も、さらに岩佐又兵衛もスターンとスウィンバーンも、当たり前にごとく引き合いに出され論じられる。」


「その後『三四郎』や『門』などの長編小説では、絵画の問題がもっと作中に深く親密に入りこみ、織りこまれていって、作中の小道具というだけでなく、作品の展開を促す隠れた主動力となってゆく。漱石作品の中に生きるこの『絵画の領分』については、私自身これまでいくたびか論じてきたが、なお語り尽くすにはいたっていない。漱石は『夢十夜』や『永日小品』のような極小の短編作品のなかでまで、あるいはあらわに、あるいはひそかに、いずれにしても巧みに、絵画について自分の知識や体験を活用しているのである。」


 夏目漱石の美術世界展の図録から抜粋