「概略を読む」その10 | さかえの読書日記

さかえの読書日記

琴線に触れたことを残す備忘録です。

「かつて『文明論之概略』をテキストにして学部演習を行う掲示をしたところ、ある日事務室から、イランの外国人留学生が演習参加志望の件でこれから伺うからからよろしく、という電話が研究室にかかってきた。間もなく私の部屋をノックする音が聞こえたので、『どうぞ』と言って扉のほうに顔を向けると、黒ずくめのワンピースに身をつつんだ若い女性が立っているのではありませんか。東大法学部には日本人でさえ女子学生は極めて少数だったので、外国人留学生と聞いたとき当然に男子と思い込んでいた私は意表をつかれる思いでした。」


「彼女の演習参加のいきさつをたずねると、『私の祖国イランは古代には世界に冠たる帝国であり、また輝かしい文化を誇っていたのに、近代になって植民地の境涯に沈淪し、今ようやくそこからはい上がろうとしている。日本は西欧の帝国主義的侵略の餌食とならず、19世紀に独立国家の建設に成功した東アジア唯一の国家であった。私はその起動力となった明治維新を知りたいので、維新の指導的思想家としての福沢について学びたい』、と」


「私は、近代日本をモデルにするなら、単に成功物語としてだけでなく反面教師としても学んでほしい、といったありきたりの意見を述べたように記憶しておりますが、黒い瞳を向けて何か思いつめたような真剣な表情で語らう彼女と対面しながら、私の脳裏を瞬時に掠めたのは、自由民権時代を代表する政治小説『佳人之奇遇』に登場する女性志士の面影でした。ついでに言えば、この外国人女子学生のよどみないテキスト朗読と、バックルの書物にまだあたった報告とは、日本人の参加学生を瞠若たらしめるものがありました。」


 丸山真男は、『文明論之概略』は福沢思想について私たちの残された唯一の体系的原論である、と位置づけしている。