「黙示録」から | さかえの読書日記

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琴線に触れたことを残す備忘録です。

「みずから『アンチキリスト』を名乗り出ることになる哲学者が登場する。いうまでもなく、フリードリヒ・ニーチェである。その著『反キリスト者』は、本人も断言するとおり、まさしく『キリスト教に対する永遠の告訴状』を突きつけて、『有罪と判決する』ために書かれたものである。」


「だが、『神の死』を告げるニーチェの哲学は、それ自体がそもそも黙示録的で終末論的なものである、とはいえないであろうか。西洋のキリスト教社会において、『神の死』ほどに究極的な啓示がありえるであろうか。『神の死』によって、また新たな始まりが画されるのだとするなら、それはますますもって黙示録的な予言ではないのか。ニーチェその人が、ヨハネやブレイクと同じく、あるいはことによると彼ら以上に、優れた預言者にして幻視者ではないのか。以下に徹底した『すべての価値の転倒』であっても、あるいはそうであるがゆえに、黙示録的な遺産を引きずることになるのではないか。『私はキリスト教会に対して、かつて告訴人が口にした全ての告訴のうちでもっとも怖るべき告訴を発する』、ニーチェのこのセリフは、まるで『黙示録』のなかに出てくるような裁きの響きを有してはいないだろうか。タイトルにある『反キリスト』という言葉それ自体が、黙示録の伝統の中で生まれ育まれたものだが、同じ哲学者の手になる『ツァラトゥストラはかく語りき』もまた、黙示=啓示を想起させるようなタイトルではないか。さらに、『この人を見よ』とは、『神の死』を宣告する哲学者の自伝的な著作のタイトルであるが、そもそも受難のキリストに向けられたこのセリフが、なぜあえて選ばれているのか。」


 『黙示録』自体を読む必要がある。