「小林秀雄の恵み」から | さかえの読書日記

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琴線に触れたことを残す備忘録です。

「徒然草のあの正確な鋭利な文体は稀有のものだ。一見そうは見えないのは、彼が名工だからである。『よき細工は、少し鈍き刀を使ふ、という。妙観が刀は、いたく立たず』、彼は利き過ぎる腕と鈍い刀の必要とを痛感している自分の事を言っているのである。物が見え過ぎる眼を如何に御したらいいのか、これが『徒然草』の文体の精髄である(小林秀雄・徒然草1942年)」


 上記は、吉田兼好の徒然草についての小林の見解である。これに対して橋本は以下のようにいう。


「私は、兼好法師が『物が見え過ぎる眼』を持っていたかどうかは、わからないと思う。その点では、小林秀雄には賛同できない。なぜかと言えば、「徒然草」の兼好が、時として「ろくに物が見えない自分、わからないでうろたえる自分」を容認し、野放しにしているからである。「見えるものは見える。しかし、見えないところもある。それはそれで仕方がない」と肯定してしまうところが、「徒然草」を特徴づける哀愁である。「徒然草」最大のヒットは、そこに「認識を武器にできない等身大の中年男」を現出させたことで、であればこそ、『鈍刀を使って彫られた名作』にふさわしいものだと思う。」


 「小林秀雄の恵み」は、古典である原典、それに対する小林の評論、更にその評論に対する橋本の論と、展開する。古典自体もよく読んでいないのに、更に難解な小林の文章、そして必ずしもわかりやすいとはいえない橋本の文章。