橋本治「三島由紀夫とはなにものだったのか」 | さかえの読書日記

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琴線に触れたことを残す備忘録です。

「たとえば末那識とは、『(豊饒の海)を書く三島由紀夫』である。その先にある阿頼耶識とは、『三島由紀夫が書いた(豊饒の海)』である。この阿頼耶識は、別の人間の胸に宿って、『もう一人の三島由紀夫』を生む。読者は、(豊饒の海)を読むのである。読んで影響されるのである。そうして、読者の胸の中には、『(豊饒の海)を書いた三島由紀夫』が生まれているのである。(豊饒の海)を読んだ読者の胸の中に、『もう一人の三島由紀夫』が生まれる時、『(豊饒の海)を書く三島由紀夫』は死んでいる。読者の胸の中に生まれるのが、『(豊饒の海)を書いた三島由紀夫』である以上、どうしたってそういうことになる。つまりそれが、『阿頼耶識による輪廻転生』である。『三島由紀夫の霊魂はないが、三島由紀夫は転生する』というのは、こういうことだろうと私は思うのだが、どうだろう。



三島由紀夫『暁の寺』の輪廻転生に関する説明について、小室直樹は次のように言う。


「無意識の根本に阿頼耶識がある。この阿頼耶識から、末那識が生まれる。末那識もまた無意識にあって顕在意識に上ってくることはない。阿頼耶識と末那識とのあいだの相互作用は次にようなものである。末那識は、生んでくれた阿頼耶識をつくづくながめて、これが自己だと思い込んでしまう。かく思量する。と書いてみてもなんでもないことのようだが、実にこれは、仏教にとっては大変なことなのだ。すでに強調したように、仏教は、自己―我というものの存在を絶対みとめない。その存在しないものを、末那識は、錯覚をおこして存在するのだと思量する。かくて自分だと執着する自我執着心が起こる・・・・・」


 小室によると、「この箇所は、敬遠されて読まれないことが多い」という。しかし、「唯識哲学の理解なしに三島を理解することは不可能だ」とも言う。橋本を読んでも小室を読んでもわからないものはわからない。