「キリスト教が近代資本主義と結びついたのは、「契約」と「労働」である。ここでいう「契約」とは、絶対神と人間との契約である。神と人間との間の契約は一方的であり、神から人間へと降りてくる神の命令と同じ意味である。上下のタテの契約ともいってよい。これに対して、近代資本主義は商品売買における契約から、近代デモクラシーは社会契約思想から出発する。いずれも、対等な人間同士の合意による契約、つまり、ヨコの契約である。」
いつどのようにして、タテの契約がヨコの契約になったのか、いまひとつ理解できない。
次に、「労働」である。カトリックの修道院には、「祈り、かつ働け」というテーマがあり、働くことと祈ることは最高の義務であった。これらを最高の義務にしたのは、パウロであり、彼は、ある大事なことをするために、それ以外のことをすべて断念して、そのひとつに全身全霊を打ち込むことすなわち、行動的禁欲を課した。自分たちの日々の布教活動のために。この行動的禁欲が修道院の世界から世俗の世界に出て行くには、いくつかの条件が必要であると。一つは、カトリック修道院の規範水準の高さ、もう一つは、「ベルーフ」という神から与えられた使命、天職という概念である。これは、世俗的職業においても行動的禁欲が適用されるという、職業義務の思想である。」
現時点での達成点