監督:片渕須直、声の出演:福田麻由子、水沢奈子、森迫永依、江上晶真、脇田美代、本上まなみ、野田圭一ほかのアニメーション映画『マイマイ新子と千年の魔法』。2009年作品。
 

 

 
 
最新作『この世界の片隅に』のヒットを受けて片渕須直監督の前作『マイマイ新子』が各地でアンコール上映されていて、僕は作品自体は以前DVDで観ていましたがあらためて映画館に観にいってきました。
 
すでにもう一つのブログに感想を書いていますが、DVDでの初見から6年経って初めて劇場で鑑賞していろいろ思うところもあったので、追記としてこちらに書いておきますね。
 
こちらの記事だけでは映画の内容を把握しづらいでしょうから、以前の感想と併せてお読みいただければ。
 
さて、観る前から予感はしていたんですが、わりと辛口だった以前の感想を訂正しなければならないなぁ、と。
 
以降、ストーリーについて述べますので、これからご覧になるかたはご注意を。
 
 
『マイマイ新子』と『この世界の~』をご覧になった多くのかたがたが仰っているように、この2本はまるで姉妹篇のような関係にあります。
 
といっても両者は原作者も別だし舞台となる時代も地域も異なっているんですが(『マイマイ新子』は昭和30年の山口県、『この世界の~』は昭和19~21年の広島県)、山口と広島は隣接しているし『この世界~』から10年後を描く『マイマイ新子』は確かに時代が繋がっていて、ヒロインの新子の母親・長子は『この世界の~』の主人公“すず”と1歳違いという設定。
 
 
 
 
小学三年生の新子や貴伊子たちは、終戦の翌年に生まれたことになる。
 
『マイマイ新子』に戦争についての直接的な描写や言及はないが、「8月15日」が特別な日であることは新子の台詞で語られているし、また、上級生で新子の友だちの鈴木タツヨシは『この世界の~』のすずの幼馴染、水原哲にそのキャラクターがとてもよく似ている。
 
どちらも登場人物たちの使うお国言葉、方言が印象的で、それはたまたまで監督が意識的にそういう題材を取り上げたわけではないのかもしれないけれど、『マイマイ新子』はまるで『この世界の~』の続篇のようにも感じられるのです。
 
『この世界の~』の広島と同様に、僕には映画の中で使われている方言がどれほど正確なのかわかりませんが(おじいさん役の野田圭一さんは山口県出身)、主演の福田麻由子さんは東京出身だけど、そのちょっと男の子っぽい声と堂々とした口調にはまるで現地の子どもが喋っているようなリアリティを感じます。
 
『この世界の片隅に』でしばしば画面に映し出されていたテントウ虫やチョウチョなどの虫たちがここでも姿を見せる。タンポポも。
 
 
 
このような2本のアニメーション映画の連続性はまだ『この世界の~』が公開されるはるか以前にDVDで観た時には当然予想もしなかったことなので(『この世界の~』の原作自体が2009年に完結しているのだし)、続けて観てみるとなんとも新鮮でした。
 
まず、初めてDVDで観た時になぜ僕がこの『マイマイ新子』にいまいちピンとこなかったのかといえば、そのリアリズムの世界への抵抗感だったのではないかと。
 
“千年の魔法”というタイトルから、僕は勝手に千年前の姫君と現代の女の子の出会いと交流、そしてちょうどジブリの『千と千尋の神隠し』(奇しくも“千”繋がりですが)のようなエキゾティックでファンタスティックな物語を想像していたんです。
 
ところが、この映画のメインとなる物語はそういう空想的な内容ではなかった。
 
戦後10年経った中国地方の麦畑が広がる農村が舞台で、等身大の少年少女たちが自分という存在や家族、周囲の人々との関係について考え、いくつもの別れを乗り越えて明日を生きていくという、非常に現実的で厳しさすらたたえた話なのでした。
 
たとえばディズニーやピクサーのアニメみたいに、深いテーマがあってもそれをいったんフィクショナルな世界観(『ズートピア』の登場キャラたちが“動物”だったり、『モンスターズ・インク』の主人公たちが“モンスター”だったように)に落とし込んだうえで笑いやアクションを交えて幅広い世代の人々が楽しめる娯楽作品として提示するようなアニメーションこそ高く評価したい僕などには、『マイマイ新子』が描く世界は地味で少々しんどかったのです。
 
みんなで可愛がっていた金魚が死んだり、大好きな担任の先生が結婚しようとしてた相手が既婚者だったことがわかったり、友だちの父親が借金のせいで自殺するような話をアニメでやられることに僕はかなり違和感を覚えたんですよね。そういう話は実写でやれば?と。
 
でも、戦時下で生きる主人公の日常生活を丁寧に描いた『この世界の片隅に』を観たあとにこの『マイマイ新子』を観ると、その手法やテーマなどに共通したものが多かったので興味深くて、劇場の大きなスクリーンでより集中して観られたこともあり、以前観た時よりもかなり入り込めたのでした。
 
時々挟まれる「パララ~♪」っていう女の人のコーラスがイラッとするのは相変わらずだったけど^_^;
 
まぁ、いい作品はDVDで観たっていいでしょうから、僕に作品の良さを見極める目がなかったということでしょうけど。以上は全部言い訳なんですが。
 
主人公たちの日常を描く、というところは、子どもの頃に観た児童向けアニメを思いだしました。人々の“生活”を描いたアニメーション作品を子どもの頃にTVでよく観ていた記憶があります。
 
この作品では子どもたちの出会いから、次第に距離が縮まって彼らが徐々にうちとけていく様子が丹念に描かれています。
 
まるで外国から来たような服装の生活感のない貴伊子が犬が苦手なのを知って親近感を覚えたり、産まれた時に母親をなくした彼女の孤独を理解する新子。
 
子どもたちってあっという間に仲良くなってしまうようにも見えるけど、でもそこにはもちろん互いの関係を築き上げていく過程があって、それを丁寧にすくい上げているんですね。
 
そして、新子と貴伊子たち“子どもの目”から見た世の中が描かれている。
 
 
 
 
麦畑の中に見える自分の家を海に浮かぶ船に見立てて、はるか千年前の光景を想像する新子。そこからさらに想像が膨らんで、彼女の目の前に千年前の「周防の国」が姿を現わす。
 
自然や建物、さまざまな風景の中で空想に耽ったことのある人なら、この新子の姿に共感を覚えるはず。
 
鼻水垂らした同級生のシゲルが貴伊子の色鉛筆をほとんどムリヤリ借りて色を塗りながら芯をバキバキに折って肥後守ナイフでどんどん雑に削ってしまうところでは、医者の娘でお嬢様みたいな貴伊子と小汚い身なりのシゲルの家庭の経済状況の違いなどがうかがえて、あるいはここで都会と田舎の人間の違いなども描かれるのかと思っていたんだけど、この映画での新子や貴伊子のまわりの大人たちは皆いい人々で、子どもたちの間でも虐めのような揉め事は起こらず、新子はミツルやタツヨシら上級生の男の子たちともうまくやっている。
 
やがてそこに貴伊子も加わる。
 
ここでは一種の子どものパラダイスが描かれている。
 
ほんとは子どもたちの世界だってこういう明るく楽しいことばかりではないはずだけど。友人関係や家族間で問題を抱えてる子だっているだろうし。
 
だからこそ、その後のタツヨシの父親の死や、新子とタツヨシが歓楽街へたった二人で行く場面などで、子どもたちが生きる世界がけっして安泰ではなく、これから先、彼らが大人になっていく途上で出会うだろう多くの困難も予感させる。
 
この映画は物語の組み立て方も『この世界の~』に似ているところがあって、確かに映画の終わり頃にはクライマックスと呼べる展開があるけれど、1本の太いストーリーで引っぱっていくのではなく日常の積み重ねによって構成されている。
 
だからか、僕は細かいエピソードを結構忘れていて、ちょっと初めて観る作品のようにも思えたのでした。
 
『この世界の~』で綿密な考証によって戦前戦中の広島や呉の街を映画の中で忠実に再現した片渕監督は、『マイマイ新子』でも新子たちの住む山口県防府市の国衙(こくが)の周辺を地理的にも歴史的にも違和感のないように作り上げていて、そこにさらに千年前の姫君の物語も浮かび上がってくる。
 
僕は以前DVDでこの映画を観た時には、この昭和30年のヒロインたちと平安時代にこの地にやってきた少女の話が頭の中でうまく結びつかなくて、そこに不満をおぼえてしまったんですが、自分が期待していたコテコテの“ファンタジー映画”ではないと割り切って観ると、担任のひづる先生から幼少期の清少納言(諾子)の話を聞いてそこから自分たちと同世代の姫君を空想する少女たちの物語に今回はスッと入っていけたのでした。
 
その「空想」とともに生きる、というのは『この世界の~』の“すず”にも通じるところがある。
 
また、平安時代の諾子(なぎこ)姫の場面に、2013年公開の高畑勲監督によるジブリアニメ『かぐや姫の物語』が重なって、これもちょっと何か感慨深いものがありました。

 

 

かぐや姫がそうだったように、見知らぬ土地に来てまわりに友だちもいない諾子は孤独を感じている。丸い籠の中に入れられた小鳥も映っている。
 
僕は片渕監督と高畑監督にはどこか共通するものを感じるので、劇中では必ずしも多くはないこの諾子姫の場面に、以前は感じなかった愛着を覚えました。
 
新子の妹の光子がそのおかっぱ頭なんかも『火垂るの墓』の節子を思わせて、“キューピーさん”で遊んだり無邪気に笑ってる彼女に何やら胸にこみ上げてくるものがあったり(光子が行方不明になるくだりは、宮崎駿監督の『となりのトトロ』のメイちゃんを思いださせますが)。
 
片渕監督は、この諾子姫や「周防の国」に登場する人々、背景の時代についてもかなり調査されたようですね。
 
劇中で言及される流れ星を追って百済からやってきた人々の昔話も、本当にそういう伝説があるのだそうな。さすがは考証魔の片渕監督(十二単で走れるかどうか、ご自身の子どもさんに子ども装束を着せて試したりもしたのだとか)w
 
ほんと、あの平安時代の場面はもっと観ていたかったほど。
 
新子と貴伊子は、想像力を駆使してこの諾子姫を共同で創り上げていく。
 
一緒に遊べる同じ年頃の娘がいると聞いていたのに誰もいなかった、と嘆く諾子姫に、彼女を迎えた地方豪族の多々良権周防介は、自分の娘が姫の遊び相手になる予定だったが急な病いで亡くなってしまい、ひっそりと埋葬されたことを告げる。
 
自分が気づかないところで人の心遣いがあったり、ありがたみを感じないまま誰かに愛されていたり守られていることはある。
 
タツヨシが警察官の父親にベーゴマの回し方を教えてもらわなかったことを悔やんで泣くように、人生には二度と取り戻せない大切な時間を失ってしまう悲しみがある。
 
さらに姫が多々良から「周防の国」の誕生についての昔話を聞く場面では、悠久の歴史の中で続いていく人々の営みや育まれる友情、別れなど、それらは途切れることなく昔も今もあるのだ、ということが観る者に伝わる。
 
諾子が小川に流した赤い色紙の切れ端が千年後の新子と貴伊子たちの前で赤い金魚になり、独りで寂しげだった貴伊子は新子と友だちになる。
 
新子は、やがて貴伊子が誤って死なせてしまった赤い金魚の“生まれ変わり”を必死に探す。
 
あの赤い金魚には、友だちを求める諾子(=貴伊子)の想いがこめられてもいるのだから。
 
孤独だった諾子姫は貴伊子と重なり、死んでしまった金魚は彼女の亡くなった母親を思わせる。
 
タツヨシの父親の件で「頭の中のこしらえ事」が現実の厳しさに負けてしまいそうになって苦戦している新子に代わって、貴伊子は諾子姫に同化して千年前の「周防の国」に行く。
 
 
 
姫の住む屋敷の外では同じような年頃の娘が、遊ぶ暇などなく毎日休みなく働いている。
 
姫はその娘の姿が見えないことに気づいて、豪族の子弟たちの案内で彼女の家にむかう。娘は家族が病気で倒れてその看病のために仕事ができずにいた。
 
娘のつらそうなその表情に姫は「もっと笑えばいいのに」と言う。
 
 
 
 
日々の労働の大変さや生活のつらさなどわからない姫の能天気な発言にも思えるけれど、そんな姫は友だちと遊ぶために作った人形で即興の劇を演じて娘の幼い妹たちを楽しませ、笑顔にする。
 
人はそれぞれの役割を果たし、生きていく。人生には新子と貴伊子のような素敵な出会いもある。
 
今から千年前に生きていた諾子もまた、新子や貴伊子たちと同じように等身大の生身の人間だったということ。
 
『この世界の片隅に』のすずは絵を描くことが生きることと結びついていたが、『マイマイ新子』の新子や貴伊子は物語を想像(創造)することで現実をいっそう豊かなものにしていく。
 
僕は以前観た時に新子や貴伊子の物言いに、ちょっと小学生低学年の子どもらしくないところがあるのが気になって、「いかにも大人が考えた子ども像」のように感じてしまったのだけれど、現実に子どもたちが「無邪気な子ども」でいることが許されないような時代になってきた現在、彼女たちの姿はむしろ「リアル」なのかもしれないし、片渕監督は新子たちを子どもというよりも「小さな人間」として描いたのかもしれないな、と思いました。
 
この映画は、空想が現実に力を与えてくれることを説得力を持って描いていたのだな、と。
 
目に見えるような魔法や奇跡は起こらず、優しかったひづる先生は結婚して学校を辞め東京に行くことになり、無口だが新子に協力的だったタツヨシは「本物の決死隊」だったはずの父を自殺で失い、新子たちと別れて母方の実家に引っ越すことになる。
 
仕事で留守がちな父親の代わりに新子たちにいろいろと教えてくれたおじいちゃんも亡くなる。
 
そして意外にも、映画の最後には新子もまた父親の仕事の関係で生まれ故郷である防府から貴伊子が来た東京に引っ越すのだ。
 
一方、東京っ子だった貴伊子は、いつの間にか新子と同じように山口弁で喋っている。
 
『この世界の~』がヒロインが自分の“居場所”を見つける映画だったように、この『マイマイ新子』でも最後に新子は新たな世界に旅立ち、貴伊子は自分の居場所を見つける。
 
ところでちょっと不思議だったんですが、僕は最初この映画を観た時に、新子のおじいちゃんとおばあちゃんはてっきり母方の祖父母だと思っていたんだけど(新子の母親の長子とのまるで実の親子のような親しげな会話などが義父母と嫁のそれのようには思えなかったので)、映画の最後のあたりに登場する新子の父親はおじいちゃんと同じように山口弁を喋っているし、キャラクター名を確認すると家族は全員が「青木」姓なので、ではおじいちゃんは父方の祖父なのか、と。
 
そういえば、長子さんは標準語喋ってましたしね。彼女は東京出身という設定なのかな?
 
すいません、原作小説を読んでいないので。
 
だけど、おじいちゃんはもともと教師だったということだし、嫁を「長子は~」と呼び捨てにするのもなんとなく不自然な気が。それとも新子の父親は婿養子なのか?
 
別にこんな細かいことに難癖つける必要もないんですが、映画の中では説明がないので気になっちゃって。
 
それはともかく、話が最初に戻りますが、この映画と『この世界の片隅に』の最大の共通点は、大切な存在は自分が憶えていればずっと心の中にいる、と語っていること。
 
生まれ変わりの赤い金魚を見つけた場所で、新子が貴伊子に、亡くなった人も別れた人も、みんなここにいる、と言う。
 
 
 
小学三年生は小学三年生なりに明日について考え悩み、そして別れの悲しさや寂しさを乗り越えていく。
 
想い出は永遠に残り、そして私たちは明日も生きていく。
 
劇中で新子が鉄道の線路に耳をあてて列車の音を聞くシーンがありますが、監督によればあれはビクトル・エリセ監督の『ミツバチのささやき』(1973)からの引用なのだそうです。
 
『ミツバチのささやき』もまた、幼い少女が日常の中で“喪失”を経験する映画でした。
 
やはりこの映画は『この世界の片隅に』と繋がっている。そして、片渕須直は「死」や「喪失」を経て、さらにその先の「未来」にむかっていく人々を描く。
 
ここへおるみんなで笑おうや──“明日の約束”とは、そういうことなんだろう。
 
 
 
コトリンゴのエンディングテーマの歌詞にこの映画のすべてが集約されているようで、その抒情的なメロディとともに聴いていると涙が出てきそうになります。
 
『この世界の片隅に』の音楽も担当したコトリンゴさんは、ほんとに作品の多くを担っていると思う。
 
彼女の曲、歌声が映画をさらに高みに引き上げている。
 
 
 
…いやぁ、なんかベタ褒めですね。最初に観た時にはあーだこーだと散々文句垂れてたくせに。
 
『この世界の片隅に』効果でしょうかね。我ながら単純な奴だなぁ。
 
でも、確かに『この世界の~』を観ていなければ僕は『マイマイ新子』を今回のようには評価し直すことはできなかっただろうし、映画館のスクリーンであらためて観たからこそこのような心境の変化があったのだと思います。
 
今となっては、まだ未見の人たち、特に『この世界の~』を観て感動されたかたがたにはぜひこの機会に映画館でご覧になっていただきたい、とお勧めすることで、せめてもの償いとさせてください。
 
僕が観た映画館では公開からまだ数日ほどで、しかも一日の上映回数も限られてるのに観客は僕とあと1~2人ぐらいでとても寂しかったです。2週間限定公開でもうまもなく終わってしまうのに、もったいないなぁ。『この世界の~』はお客さんいっぱい入ってるのに。続けて観ると感動倍増ですョ。
 
これから公開の地域もありますから、どうぞ皆さん劇場へ足を運んでみてください。
 
あと、東京では片渕監督の劇場長篇作品第1作目の『アリーテ姫』も映画館で上映されたようですが、こちらでもやってほしいなぁ。
 

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