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光母子殺害死刑確定へ
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/yamaguchi/news/20120221-OYT8T00158.htm

本村洋という人は、私の中では超人ですね。
残念ながら日本の(というか世界中どこでも同じですが)司法は万全ではありません。もしこの事件の遺族が本村洋さんでなければ、福田孝行は死刑にはなっていなかったでしょう。考えてみれば恐ろしい話です。これは遺族の努力や能力が不足していれば量刑が軽くなるということだからです。

本村洋さんは常人離れした努力をし、さらに能力もあったため死刑という正当な結果を導き出すことができました。しかし99%の人にこんなことは不可能だったと思います。
何かのテレビでもやっていましたが、最高裁の文章では「本村さんの行動や感情は判決に影響していません」「最高裁が独立して考えた結論です」ということをアピールしていますが、現実としては間違いなく影響があったと思われます。

これを逆に考えると、本村さんが勝ち取った(という表現もどうかと思いますが)「死刑」という判断は、今後の判断に影響を与えることになります。
だって、最高裁としては「本村さんの努力とは関係無く死刑にしました」と言っているのだし、また当然そう言うべきなのだから、同様の事件があれば、次の遺族が本村さんのように多大な努力ができ、さらに能力も持っている人でなくても、犯人は死刑になる可能性が極めて高いということになるのです。
本村洋という人は、死刑へのハードルを下げるという極めて大きな仕事を成し遂げたのです。(本人さんにそんなつもりは全く無かったと思いますが)


では、そもそも福田孝行という男が犯した罪が本当に死刑に相当するのかという問題があります。
クソ左翼的な「戦争絶対反対論」を主張する際には、よく「戦争の悲惨さ」を前面に出します。焼けただれた死体の写真などを出しては


ほぉら、戦争は悲惨でしょう
これを肯定するというのはトンデモないことですよ



という論理ですが、そんなこたぁ分かっているのであり、そもそもそれが戦争というものです。しかし現実には、それを押してもやらねばならない時があります。
もし日本が「やらなかった」ら、日本を含めたアジア諸国の一般国民は死ぬまで働かされ、国土を蹂躙され、奴隷になっていたでしょう。「人がたくさん死んでもやらねばならない時」にこそ、戦争は行われる可能性があります。

こういうバカバカしい使い方をされる「実例」に対し、死刑を受けるべき人間が犯した罪を知ることは必須です。「誰それの父親が死んでしまう可能性」を重々見越した上で、それでも「やらねばならない時がある」のが戦争ですが、死刑は個々人の問題です。個別の一人一人が、

自分(や家族)がこういうことをされても、犯人の更正と社会復帰を願うか

ということを真剣に考え、もし願うのであれば、それを自分以外の他人も同様に「更正を願うべきだ」と主張するのが死刑廃止論です。
その上で、福田孝行の行動を、裁判記録や自ら書いた手紙で復習してみましょう。
しつこいようですが、これは個々人の問題です。自分の家族が同じことをされたという想定で読む必要があります。(※簡単にするために一部編集しています。)

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被告人は,排水検査を装って呼び鈴を鳴らし,
被害者がこれを信用したのに乗じて室内に入り,

被害者の背後から抱き付き,
被害者が驚いて悲鳴を上げて手をばたつかせるのに対し,
肩をつかんで後ろに引き倒し,
仰向けになった被害者の身体に馬乗りになった上,
激しく抵抗する被害者の首に両手を掛けて,
その喉仏を両手の親指で思い切り押さえ付けるようにして首を絞めた。

そして,被害者が被告人を振り落とそうとして,
更に激しく体を動かし,
また,被害児が被害者の顔の辺りに這ってきて,
激しく泣き叫んでいるにもかかわらず,

何らためらうことなく,

全体重をかけて被害者の首を絞め続け,

被害者が動かなくなった後は,
その口に布テープを貼り付けた上,
手首を縛って,姦淫の目的を遂げた。

さらに,被告人は,
泣きやまない被害児を床に叩き付けた上,
両手で被害児の首を絞めて殺害しようとしたが,
うまくいかなかったので,
被害児の首に所携の紐を二重に巻き,
これを思い切り引っ張って首を絞め,
被害児を殺害した。

(略)

被告人には,憐憫の情やその生命を奪うことに対するためらいといった感情をうかが

うことはできず,
(略)
殺害した後,被害児を押入の天袋に投げ入れ,
被害者を押入に入れるなどして犯行の発覚を遅らせようとした上,
窃取した地域振興券を使用してカードゲーム用のカードを購入するなどしてお

り,・・・


------

◇一審判決後(求刑死刑、判決無期懲役)に福田孝行が友人に送った手紙の内容

『オイラは、一人の弁ちゃんで、最後まで罪が重くて「死」が近くても「信じる」心をもって、行く。そして、勝って修行、出て頭を下げる。そして晴れて「人間」さ。オレの野望は小説家。へへ』

『誰が許し、誰が私を裁くのか・・・。そんな人物はこの世にはいないのだ。神に成り代わり、法廷の守護者達・・・裁判官、サツ、弁護士、検事達・・・。私を裁ける者は、この世にはおらず・・・。二人は帰ってこないのだから・・・。法廷に出てきてほしいものだ・・・何が神だろう・・・サタン!ミカエル!ベリアル!ガブリエル!ただの馬鹿の集まりよ!』

『知ある者、表に出すぎる者は嫌われる。本村さんは出すぎてしまった。私よりかしこい。だが、もう勝った。終始笑うは悪なのが今の世だ。ヤクザはツラで逃げ、馬鹿(ジャンキー)は精神病で逃げ、私は環境のせいにして逃げるのだよ、アケチ君』

『犬がある日かわいい犬と出合った。・・・そのまま「やっちゃった」、・・・これは罪でしょうか』

『五年+仮で8年は行くよ。どっちにしてもオレ自身、刑務所のげんじょーにきょうみあるし、早く出たくもない。キタナイ外へ出る時は、完全究極体で出たい。じゃないと二度目のぎせい者が出るかも』

『選ばれし人間は人類のため社会道徳を踏み外し、悪さをする権利がある』

(死刑判決を免れて)『勝ったと言うべきか負けたと言うべきか?何か心に残るこのモヤ付き・・・。イヤね、つい相手のことを考えてしまってね・・・昔から傷をつけては逃げ勝っている・・・。まあ兎に角だ。二週間後に検事のほうが控訴しなければ終わるよ。長かったな・・・友と別れ、また出会い、またわかれ・・・(中略)心はブルー、外見はハッピー、しかも今はロン毛もハゲチャビン!マジよ!』

(被害者の夫、本村氏について週刊誌の実名報道を踏まえて)『ま、しゃーないですね今更。被害者さんのことですやろ?知ってます。ありゃー調子付いてると僕もね、思うとりました。・・・でも記事にして、ちーとでも、気分が晴れてくれるんなら好きにしてやりたいし』


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これが、(ほとんど)ありのままの現実です。
上記の文章を細かく紹介して解説を入れる必要はありません。個々人が考えて「それでも犯人の更正と社会復帰を願う」のであれば死刑反対を主張し、そうでなければ死を以て償うべきと主張し、分からなければ分からないという立場でいればいいでしょう。

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さて、昨日21時のNHKニュースですが、福田孝行の生い立ちや「かわいそうな環境」をひたすら紹介していました。

「何が犯行に駆り立てたのか」

「犯行の裏にある闇は」


などと言っていたように思いますが、こういった情報は「本当に死刑にしていいのか?」という否定的な投げかけがほとんどです。NHKは直接的に死刑否定をしたわけではありませんが、内容のほとんどが「かわいそう、かわいそう」という話でした。

死刑に反対する者が常に主張するのは、

「殺人を犯すに至ったのは環境(社会)の問題であり、犯人一人の命をもって全責任を負わせるのは不合理だ」

という主張です。
それならば窃盗も環境のせいであり、インサイダー取引をしたのも環境のせい、結婚詐欺をしたのも環境のせい、全ての犯罪は環境のせいということになります。キチガイか。

じゃあ、私は日本の核武装を支持していますが、それも環境のせいなんですね。他にも、日本は朝鮮や台湾の統治について弾圧・搾取に主眼を置かずにやろうとしたという主張をしていますが、これも環境のせいでしょう。クソゴミウスラサヨクが持っている反戦平和原理主義も環境のせいですか。
つまりこの世は何をしようと全て「他人が悪い」ことになり、その「他人」とは誰か、という答えは決して出てきません。従ってこの世から「責任」というものは無くなるか、少なくとも非常に薄まったものしかなくなります。

あるいは、その「環境」を与えた者が悪いという話にすべきです。

福田孝行の環境を作ってきたのは彼の両親であり学校ですから、それならば、福田孝行のような殺人を犯す人間を育てた連中には厳罰を与えるべきです。
昨日のNHKでも当時の担任の先生が出ていましたが、環境の大きな一部分を形成したのは学校でもあるのだから、この先生もかなりの責任を負うべきでしょう。

そして、それはどこまで波及するのでしょうか。
福田孝行の親は、カスゴミサヨクが言うところの「環境」を与えた者です。言い方を変えれば「殺人事件を起こすような人間を育てた重罪人」です。ということは、それを育てた福田孝行の祖父母にもまた責任があります。
この連中が言うように「環境(社会)が悪い」のなら、環境に罰を与えねばなりません。「環境にボーダーは引けない(どこまで波及させればいいのか分からない)」と言われるかもしれませんが、それは通りません。
なぜなら、それは犯人一人に死刑未満の懲役刑を与え、他の者は全員無罪だという主張になるからです。つまり何のこたぁない、「環境(社会)」を代表して罰を受けたのは本村さんの妻子だったということになるではありませんか。

繰り返します。
「環境悪」原理主義者は、根源的に悪いのは福田孝行ではなく「環境」(社会)だと主張します。しかし環境に罰を与えろとは一言も言わず、その一部である被害者にだけ罰を押しつけている。最悪の卑怯者です。殺された者は被害者であり、なおかつ「環境(社会)」を代表して罰を受けたという形式になります。

もっと分かりやすく書くと、福田孝行を育てた「主犯」である環境(社会)の責任を取り、本村さんの妻子は惨殺されたという形式です。

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「環境が悪くて殺人に及んだのだから死刑にすべきではない」という方向での死刑反対論は破綻しています。
「環境が悪くて」と言うのなら、その「環境」に罰を与えるよう主張しろ。
それは父母であり、祖父母であり、親戚であり、学校であり、友人ということになるでしょう。そして、どれほどの困難が伴おうと「ここまでが責任を負う」というボーダーを引くシステムを構築すべきです。

それをやらない限りは、殺人は単なる「社会現象」であり、殺された人が環境(社会)の犯した罪を代表して罰を受けたというあまりにも酷い形になります。



「環境(社会)悪」を主張しながら、その「環境(社会)」に
罰を与えようとしないのは破綻している!!
殺された人に対して、これ以上の冒涜があるのか!!
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