
最近、カラヤンの演奏に惹かれる。
かつて、カラヤンが好き、というと、何故かこの日本では素人扱いされるような風潮があった。
「カラヤンなんて、綺麗なだけで中身が無い、それに比べて、フルトベングラーのこの演奏はその深い精神性に心が震える」(フルトベングラーのところは、トスカニーニでもカルロス・クライバーでも、クナッパーツブッシュでも良い)みたいなこと言ってると、何となく音楽がわかる奴みたいに見える、そんな変な風潮だ。
恥ずかしながら、僕もその影響はかなり受けていて、長らくカラヤンのCDを買い求めることは無かった。つまりはアンチ・カラヤンを気取ってた訳だ。良く聴きもせずに。
クラシックの聴き始めのころは、とにかく知識が欲しくて、雑誌や本を読みまくった。その中でも最も影響を受けたのは、有名な宇野功芳氏。そのおかげて、口先で玄人の真似事をできる程度の知識だけは得た。ブルックナーのすばらしさに気づかせてくれたのも氏のおかげ。しかし、この結果として、友人達を前に、恥ずかしげも無く前述のようなコメントを披露しては玄人の振りをし始めることになる。氏の本はいわずもがな、加えて、当時の雑誌に書かれていることといえば、「カラヤンの演奏はうまいしきれいですばらしい、だけどね・・・」ということが繰り返し書かれていたからだ。
つまり、結果としてクラシック音楽というものの知識を得ると同時に、かなり偏った志向を得たことになる。
音楽雑誌を読まなくなって久しい今、改めて過去に購入したCDを聴き直している。その中に、カラヤンも含まれている。そうして聴いてみると、やはり「良い」のだ。ありがちな評論家のカラヤン評で、「感心はするが、感動しない」なんてことはなく、昨日聴いたブラームスの3番など、終楽章ではワクワク、ゾクゾクしながら聴いて非常に感動させられた。
そもそも、音楽の演奏での「精神性」って何なんだ?それは、果たして演奏者の問題なのか?聴く側の感性の問題とは言えないのか?うまい下手ははっきりしている。だが精神性と言われると・・・正直良く分からない。音楽を聴いて、確かに自分の中に、ある種の感情や、思想が生まれ、それが感動となって現れる。それは確かで、それが演奏によって左右されるのも確かだ。ただし、そもそも、演奏自体に何か精神性が備わってるのか?と言われると・・・
ま、どうでもいいや。僕は単に、自分が良いと思った物を素直に聴ければそれで良い。