Montage ― SATONAKA Works redaction ―

Montage ― SATONAKA Works redaction ―

egoistic-rain(samantha!) × UNIVESES + SATONAKA Works = galla !

galla = Shimazaki × Tohno × Kitamura
生きることは、表現すること。生きることは、託すこと。わたしたちは、文字を残すことで、生きつづけます。

ひさびさの更新が自分が出るわけでもない演劇公演の宣伝で恐縮ですが💦


来週末(7/13)、息子が演劇公演に出演します。


語られるのは 地域の記録であり、そこに住む人たちの記憶であり、灯台にまつわる物語でもあります。

この演劇は、実際にその土地に住む方々に演者がインタビューした内容をもとに作られています。

私は以前、大学一年の頃まで住んでいた遠野について語り、それを物語のエピソードのひとつとして取り上げていただいたことがあります。自分が話したなんでもない過去の記憶の一端が、演劇として多くの方の目に触れることがなんともこそばゆくもあり、他者に演じられることで自分のことを少し客観的にみることができるという不思議な感覚になったのを覚えています。

とあるご縁で前回の高久編から息子が出演者という立場で関わるようになってから、作り手側の大変さや、インタビューによって繋がる縁、公演によって広がる縁があることを知りました。


知っている土地に住む人々が語る、知らない土地の話。ぜひ観にいらしてください(そしてうちの息子を応援してください!☺️)。



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劇団ごきげんよう「わたしの人生の物語、つづく。 ~塩屋埼灯台 編~」
演出:永山智行/出演:劇団ごきげんよう

2015年から活動し、これまで豊間・田人編、内郷・遠野編、久之浜・大久編、川前編、四倉編、大野中学校編、高久編として地域の方の人生の物語を、演劇を通してお届けしてきた「劇団ごきげんよう」。
今回は塩屋埼灯台編と題し、明治のころから地域を照らし続けてきた灯台に住み、守り続けてきた人たち、現代に至ってその思いを受け継ぎ大事に思う人たちにお話を聞かせていただき演劇作品を作りあげました。
人と地域の魅力がたくさん詰まった物語をどうぞお楽しみください。

日時:2025年7月13日(日)
   ①11:00開演(10:30開場) ②14:00開演(13:30開場)
会場:豊間中央集会所
   福島県いわき市平豊間下町149-2
料金:無料(全席自由・予約不要)

【演劇講座】参加者募集
下記の日程で、劇作家・演出家の永山智行さんによる演劇講座を開催します。
地域で取材しながら演劇作品をつくりあげる「劇団ごきげんよう」の創作方法に触れて、7月13日(日)の公演にもご出演いただけます。演劇経験、年齢、性別、国籍は一切不問です。
興味のある方は、お気軽にお問い合わせください。
日程:2025年7月7日(月)~同年7月13日(日)
※開場・時間は参加者に別途お知らせします。

主催:塩屋埼灯台活性化プロジェクト実行委員会
企画製作:いわき演劇クラブ/とよまの灯台倶楽部

お問い合わせ
 電話 090-8530-0509(萩原)
 メール hagiharahiroki@gmail.com

本事業は「令和7年度公益信託駒澤嘉いわき生涯学習振興基金」と「日本財団『海と灯台プロジェクト』」の助成を受けて実施しています。
無数の運命の巨星が去来する。
軌道はカオス力学によって乗るか反るかが決まるだけだ。

頭上を掠めていく尾は世界を過去と未来に違え、太陽へ近づくにつれて生と死の意味をより曖昧にしていく。

そこに真実は存在しない。
注意して深遠を観測した者が望む無数の事実のみが浮遊するようにただ、存る。




たった数日間で、ひとつの明かりが消え、ある人のステージが変わり、また新しい出会いが生まれている。

そんな職場で仕事をしているのだということを久々に認識したし、高速道路で思わぬ障害物を目前で知覚したときどうするか…といったようなことを思い出した。

クセや経験で右か左に切ったとしても、それに明確な理由はない。ただの衝動。
しかしそれによって予後は変わる。周囲も変わる。


何を以て全力とするのか。
毎日毎分毎秒を全力で生きることはできない。

我々はどうすべきか。
備えるしかないのだ。そのための学習、経験だ。少しでも可能性を高めるための。


https://youtu.be/C7aCInI-g10?si=gLgWiO8YtAQnTphP

表現者側にいる友人が"(他者の作品を観るときに)それほどでもないと感じたものが称賛されていると、自分に気づけなかったものがあるのかもしれないと思って怖くなる"といった話を何度かしてくれていて、そういうものだよなと思って聞いている。

その"そういうもの"というのは友人のいう内容そのままを自身で感じているのと同時に、自分にとってそれは作品の上だけでなく、日常生活の場でも起こり続けていることだからだ。

 

いつそれに気づいたかはもう忘れてしまったが、幼い頃から違和を感じていたのは確かだ。自己中心的?感性が違う?記憶能力が低い?何らかの障碍?わからない。しかし、自分が何ともないと思うことを他者が騒いでいたり、その逆のことが起きたりすることはそこそこの頻度で起こっていた。田舎で小学・中学と顔ぶれが変わらない環境だったからそういう個性の人間と認知され、幸か不幸かある程度穏便に卒業でき、高校も同じような具合だった。小中学校の同窓会であった友人たちから「お前が結婚するとは思わなかった」と言われて、ああやはりそう思われていたのかと変に納得した。

 

幼い頃に交通事故により後頭部を強く打ったことが元で記憶が薄れやすいのではと勘ぐって入るのだが(そのような診断は出ていない)、異常に物忘れがひどく、また物を忘れやすいということもある。忘れ物防止のために玄関の靴の前に置いておいても持ち忘れることがあるほどで、購入後に切符がみつからなくなることも一度や二度ではない(過去に観た映画や本を再度見返す時に、新鮮な気持ちで見進められるときがあって、そこだけは少し感謝している)。仕事柄、年相応の物忘れや初期の認知症の方々と接すると、何とも言えない気持ちになることがある。

 

自身の記憶に自信が持てないゆえに、外部記憶に異常な執着を持つようになった。おそらくそれが転じたものと思うが、貰い物や故人の遺したものなどをおいそれと捨てられない性格になってしまい、部屋は年じゅう片付くことなく次第に積み上がり、文房具やPC関連機器は家を探せば同じものがゴロゴロ出てくるようになってしまった。

 

また、小さい頃に夏休みアニメ劇場的なもので観始めた「KEY THE METAL IDOL」というOVAがあって、その作品の主人公である兎季子という少女は、自分はロボット工学者の祖父に造られたロボットだと信じているという設定だった。他者との世界の捉え方の相違を受け止める姿勢に、変に親近感を持ったのは覚えている。それはその後の続き、冨樫義博が描いたマンガ「LEVEL E」やキリンジの曲「エイリアン」など、人に擬態して日常を少し外側から描く作品に興味を持つようになった。

 

或いはそれは、自分が左利きだったり色覚異常だったりと、生きるうえで少しずつマイノリティを感じる場面が多かったことが起因しているのかもしれないし、外面は良いが自己中心的に生きる父親の教育感が増長させた結果であっただけなのかもしれない。

 

もうひとつ。座禅で“雑念を払う”という言葉があるから皆そうだと思っていたのだが、自分の頭のなかではだいたいいつも何がしかの音楽が流れているか考え事をしているか時には並行しているか複数同時に行われているかしていたのだが、聞くところによると"何も考えないということができる人がいるらしいという話を聞いて心底驚いた。極度に集中できればその他の思考は中断されるが、そうなるとそれ以外が極端に見えなくなる。

 

人生も折り返しになってわかってきたが、自分にとって集中できる幸福な時間は、仕事でエクセルを使ったプログラムを組んでいる時か、優れていると感じる映画・演劇を鑑賞しているときくらいだ。その2つの事象以外で頭がクリアになる時が年に23日あって、たいてい半日ほど続くその日は仕事がとてもスムーズに進む。何がトリガーになって頭がクリアになるのかは、まだわかっていない。

 

とにかく物心付いた頃からそのようなものだから、自分だけが気づけないでいるのではないかという不安には、さすがに対処できる(半ば諦められる)ようになってきた。人生も半ばを過ぎ、この精神・肉体との付き合いもあと半分を切った。すでに擬態前の記憶を忘れてしまった私は、これから何を覚え、いくつの過ちを犯し、そのうちいくつもの罪を覚えていられるのだろう。

生きるということは、とても現実的なことだ。せめて、残った時間で関わる人たちのために、僅かでもその記憶の片鱗を持ち続けていられればと思う。これからを後悔しないために。

 

 

bgm Mirage Collective – “Mirage Op.1” (Official Visualizer) 

https://youtu.be/dmkeUhNcfnE