稲作は朝鮮半島を経由して日本列島に伝わったのか?<後篇> |  Egi Shun,s BLOG~歴史教科書から探る史実探訪

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山川出版社刊 『詳説 世界史研究』『詳説 日本史研究』 の記述から、気になる史実を探訪しています。右サイドバーの目次からどうぞ


 ↓ 前の記事-前篇からの続きです。
http://ameblo.jp/egiihson/entry-11872210508.html

前編で引用した図の地図を大きく表示、簡単に地名を足しました。

以前はの説が有力とされていました。現在はの説が有力視されています。

の説の山東半島から遼東半島へ、の説の山東半島から朝鮮半島北西部へ、この伝搬はあったと考えられます。

しかし、朝鮮半島を北から南へ伝搬していったというのは、その理由が見当たらないし、伝搬する人もいなかった。というのが前篇の論旨でした。

の説について、稲籾と稲作そのものは、このルートでも伝搬されたであろうと推測しました。


残るの説ですが、わたしの手持ちの教科書の記載でも否定的な見方がしてあります。

黄河より北には新石器時代の栽培稲の出土例がない(前篇の最初の引用図参照)

黄河流域で稲作が盛んではなかったであろう記述は世界史の教科書に記載があります。
東アジアについて、一般論として地理的・気候的状況の概要が記載されている部分なんです。

<山川出版社 詳説世界史研究83頁>


黄河の水と黄河流域の土壌が水稲栽培に向いているとは、とうてい考えられないですね。稲作は伝わっていたとは思いますが、せいぜい陸稲栽培であり、かつ普及しなかったと考えるのが自然でしょう。

現代でも中華料理で使用する主な穀物原料と言えば(小麦)です。の素ですね。

<山川出版社 詳説世界史研究117頁>


ちなみに、北京は黄河流域よりもずっと北方にあります。ここを中華の都にしたのは征服王朝(元)であるモンゴルのフビライなんです。


それまでの中華帝国の首都、漢の洛陽・隋.唐の長安・宋の開封はすべて黄河流域に位置しています。

この当時の北京付近は北の国境の辺境地帯であり、北京(琢郡)は国防の最前線の都市でした。三国志の英雄-劉備玄徳の故郷であることについては割愛しますw

の説がどれだけトンデモ説なのか!これでお分かりいただけましたでしょうか?
水田稲作が行われていない地域から水田稲作が伝搬してくるわけないやん!!www


中華歴代王朝には、「均田制」という土地制度があるじゃないか!「」をベースにした土地制度があるのなら、水田耕作が盛んだったんじゃないか?というご説もあるでしょう。

均田制は単に土地に関する制度ではなく、戸籍制度・課税制度をも含めた為政者にとってたいへん便利な一元管理制度でして、遣唐使で学んだ奈良時代の日本にも導入されました。


<山川出版社 詳説世界史研究113頁>




日本で「」と言えば水田を意味しますし、「」で栽培されているのは通常「稲」です。
しかし、中華歴代王朝の「」で栽培されていたのが必ずしも「」とは限らないのです。

学者や教師が意図的に隠しているのかどうかは知りませんが、このことはしっかり周知していただかないと、大抵の日本人は誤って解釈してしまいますね。歴史と国文の学者・歴史と国文の教師・に猛省を要求します。



ちょっとエキサイト翻訳で試してみましょう? →http://www.excite.co.jp/





お分かりいただけましたか??
中国語の「」は「農地」一般のことなんです。

穀物を栽培する農地を『』、穀物以外の作物を栽培する農地を『田地』と表すようですね。したがって中華大陸の『』で栽培されていた穀物が『』とは限らないのです。ちなみに果樹園は果園(果园)です。「桃園の誓い」ってのもありますねw

日本語における『』『』は、国字といって、日本で創られた漢字なんです。



             引用元→http://www.sanseido-publ.co.jp/

念のため、中国語に詳しい友人にも確認してみましたが、『』『』は、現在の中国語でも、「畑地」の意味では使わないそうです。使ってる国字はたくさんあるそうなんですが、『畑』『畠』は固有名詞以外使ってないらしい。

日本で創られた漢字の熟語(和製漢語)もたくさんありますよ。

                wikipedia.org/wiki/和製漢語 

  ですってよ。中華人民共和国の共産党の幹部のみなさん! www



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